対話 2026

宮台真司&新田祐士の対話(前編)

宮台真司 × 新田祐士

宮台真司.comを編集しています、新田です。

ある日、宮台さんから、
こんなメッセージをいただきました。

宮台:
新田さん。可能であれば、新田さんと宮台との対話という形で、新田さんのメッセージとそれに応える宮台のメッセージを、「宮台真司ドットコム」に紹介していただきたく存じます。たぶん、こうした対話を誰も見たことがないだろうと思います。だから、こうした対話が生じ得る磁場が、「ゆにわ」の時空にはある、と思っていただけるだろうと思います。

宮台さんがはじめて〝ゆにわ〟に来られてから、
僕や宮台さんとLINEにて頻繁にメッセージのやり取りをしていましたが、

その過程を通して、
宮台さんも、これまでぼんやり思っていたけど
言語化されなかったことが、言語化されていった、ということを
話されていました。

その「プロセス」そのものを、みんなに見てほしいと言います。

そこで、今回、宮台さんとのこれまでのやり取りを、
「解説付き」で掲載させていただこうと思います。

これまでの、
・宮台さんのストーリー
・映画「天使たち」
・宮台式人類学の「あとがき」

を通してお伝えしてきた宮台さんの思想の、
さらに〝根源〟に触れることができる
非常に貴重な資料となっています。

それでは、どうぞ。

「あとがき」について

まずは、宮台さんから、
最新刊「宮台式人類学」の「あとがき」を
事前に読ませてもらいました。

新田:
宮台さん、読ませていただきました!

これは、宮台さん個人の思想表明に見えて、
「社会学」という自己維持に失敗した生命体が、
自己破壊と再編のために、
宮台真司という〝器官〟を一時的に起動して
語ってしまった文章に見えました。

中高生が理解できるかどうかは別として、
「完全に理解されること」を
最初から目的にしていない点に、
このあとがきの〝作動〟そのものを感じました!

宮台:
新田さん、ご感想ありがとうございます。このご感想自体が、極めて生態学的で、僕の本の意趣を誰よりも深く理解してくださっていると感じます。本当にめちゃめちゃありがたいです。

新田:
こちらこそ、
そんなふうに受け取っていただけたこと自体が、
とても印象深い〝体験〟でした。

先日、宮台さんのストーリーに触れさせていただいたこともあって、
今回の後書きが、
人生そのものを一点に凝縮したように感じられました。

改めて、
「理解した」というより、
語らせてしまった場に
一瞬だけ立たせてもらった、
そんな感覚が残っています。

ここまでの流れを、補足解説します。

宮台さんは、あとがきに、以下のように書かれていました。

「宮台の」と著者名を記すのが恥ずかしい。その気持ちを本書にある「言説の生態系が偶然に特定者の発話を然らしめる」という命題でも記した。

この部分が、僕は一番印象に残ったところです。

ここで、宮台さんは何を言っているのか・・・?

宮台さんは、「予定調和」を嫌います。

予定調和とは、
あらかじめ用意された理解の枠の中で、
安全に回収されていく思考のことです。

逸脱はなく、
揺らぎもなく、
世界は「わかる形」に整形されて終わる。

宮台さんが嫌うのは、
この「回収される思考」です。

「宮台の」と著者名を記すのが恥ずかしい。

この一文は、
単なる照れや謙遜ではありません。

それは、
「自分が語った」のではなく、

ある場が、

ある生態系が、

一時的に自分という器官を通して語らせた、
という認識です。

宮台さんは、あくまで器官の一部であり、

そのタイミングで宮台さんと出会った様々な人が

一緒に、生み出しているのです。

これはつまり、

言葉は個人の内面から湧き出るのではなく、

環境との相互作用の中で、
特定の個体を通して現れる、

ということです。

宮台さんは、たびたび、

「ゆにわには、特別な磁場がある」

と表現されます。

磁場は、その場にいる人の内部構造に、

揺らぎを生じさせて、

新たな〝意味〟が生成されるのです。

こういったことを、僕が書いたので、
宮台さんも

「このご感想自体が、極めて生態学的で、僕の本の意趣を誰よりも深く理解してくださっていると感じます」

と答えてくださったのだと思います。

この話は、続きの話にも繋がってきます。

では、見ていきましょう。

宮台:
本当の話ですが、あとがきを書こうとしていた直前の、早朝に見た夢で、あとがきに書くべきことが、示されていたのです。というか、夢の中で書いていたのです。

僕を「語らせた」ものは何だったのかと考えますと、夢は無意識に働く磁場ですから、僕の無意識を動的に動かすパラメータたちでしょう。

パラメータたちには、僕のセルフ=自己物語もありましょうし、僕に様々な行為をアフォードする「ゆにわ」を始めとする皆さんから受け取る「体験」もあるでしょう。

宮台:
正直を申し上げると、新田さんがしたためて下さったプロフィールが、上の両方をかなりの解像度で再帰的に体験しなおす力を与えていたことは、間違いありません。

いずれ、僕の霊的体験(と世に称されるもの)を、もっと開示する機会があるかもしれませんが、「ゆにわ」が僕の霊的体験を動かす霊的磁場になっているのは間違いありません。

宮台:
夢を見ることには、僕の能動性はありません。だから、あとがきには僕の主体性はありません。夢の磁場には、量子脳理論が30年前に予測した量子もつれを含めて、時空にうごめく他なのもの(者と物)たちが、縦横無尽に作用しているのだろうと思います。

宮台さんは、ちょうど、

「宮台式人類学」の本を作っている最中に、

〝ゆにわ〟と出会って、

その過程で、僕も、
宮台さんのストーリー(プロフィール)を
作らせてもらう機会をいただき、

そのストーリーがトリガーとなって、
宮台さんの内部構造に、
揺らぎが生じはじめたようです。

「アフォード」とは、

「環境(場)が、ある主体に対して、ある行為の可能性を差し出している」

そんな感覚です。

ゆにわが持つ「特別な磁場」は、
宮台真司という個体に対して、

・語ること
・再帰すること
・霊的体験を再定義すること
・自己物語を組み替えること

これらの行為の可能性を差し出していた、
ということです。

これは、

「ゆにわが影響を与えた」

みたいな単純な話ではなく、

ゆにわが持つ磁場が、
宮台さんの内部に眠っていた
あるパラメータ群を活性化させた。

ということです。

磁場とは、
見えないが、確実に作用する力の場。

鉄粉をまけば、
その線が可視化されるように、

夢という磁場の中で、
言葉は配置され、
あとがきが「書かれていた」。

「夢を見ることには、僕の能動性はありません。だから、あとがきには僕の主体性はありません。」

ここまで言い切るのは、
極めてラディカルです。

通常、
著者は著者であることを引き受ける。

しかし宮台さんは、
主体の所有権を放棄する。

「場」から生み出されて、
そこに立ち会っただけなんだ

そんな感覚が、常にあるのだと思います。

それを受けて、僕はこう返しています。

新田:
立ち上がった(=励起された)、
という感覚が、とても腑に落ちました。

僕も、宮台さんのストーリーは、
書いた/考えたというより、
ただ場が立ち上がり、
そこに居合わせた、
という感覚のほうが近かったです。

その生成に、
一瞬でも関与できていたのだとしたら、
とても光栄な〝体験〟です。

量子的、という言葉を使っていただいたのが、
個人的にはとても印象に残りました。

僕自身、
昔は理系畑にいて、
量子力学と霊性のあいだに
どこか連続性があるのではないか、
という問いを
長く抱えてきました。

ただそれも、
理論というより、
今回のやり取りのように、
場や生成として
立ち上がってしまうものを
後追いで眺めてきた、
という感覚に近いです。

宮台:
新田さん、ありがとうございます。

僕も長らく同じ問いを抱えてきております。

ここで、僕が「励起」と言っているのは、
宮台さんが「量子脳理論」と言われていたので、
あえて量子力学の用語を使っています。

「励起」とは、
ある条件のもとで、場から立ち上がって顕在化する、
というイメージです。

しかしそれは、
無から突然生まれるのではない。

宮台さんのあとがきも、
もともと内部にあったものが、
ゆにわという場との相互作用のなかで
一段階、状態を変えた。

それは、
「新しく作られた」というより、
〝立ち上がった〟。

そしてここで、
もう一段、踏み込まざるを得ません。

今、「社会学」は通用しなくなっている。

少なくとも、
かつての枠組みのままでは、
社会の動きを
捉えきれなくなっている。

近代の前提。
主体の安定。
合理的選択。
制度の説明力。

それらは、
いまの世界の亀裂を
十分に扱えない。

もしそうだとすれば、

「社会学」という生命体は、
自己維持に失敗しかけている。

ここで僕が感じたのは、

社会学という生命体が、

自己破壊ではなく
自己再編を選ぼうとしている、

ということでした。

そのとき、
社会学は誰を使うのか。

宮台真司という
一人の社会学者。

しかし、それは単なる個体ではない。

長年の問い
沖縄での霊的体験
思想の格闘
そして、ゆにわとの出会い。

それらを内包した〝器官〟です。

「社会学」という生命体は、
宮台真司という〝器官〟を使って、
新たに生まれ変わろうとしている。

宮台さんもそうだし、
僕も、その一端を担わせてもらった、と言えるでしょう。

量子力学は、
こうした「見えない世界」における相互作用を
数理的に描いているものです。

この話は、後の対話において、
かなり深掘りされていきます。

「天使たち」について

ある日、宮台さんより、
HPに新たなページを作ってほしいという依頼がきます。

宮台:
ご相談があります。一昨日映画についてのトークイベントがありました。木村ナイマ監督『天使たち』です。そのために準備したメモがあります。新田さんが書いてくださったプロフィールと響き合う内容なので、宮台真司.comに、プロフィールとの関連がわかるように、掲載していただけないでしょうか。
導入のための紹介文を、冒頭に置いていただければ、なお幸いです。

これを受けて、僕は、「天使たち」のページを作りました。

詳しくはこちらのページを参照。
映画『天使たち』──意味が壊れた社会と、最後の回復回路

以下は、これを作ってからのやり取りになります。

宮台:
ありがとうございます、新田さん。新田さんのあまりの読解力と文章力に驚嘆です
お気遣いに心より感謝申し上げます。

新田:
宮台さん
ありがとうございます。

あのテキストは、映画評というよりも、
宮台さんが長年見続けてこられた「回復の条件」が、
もっとも具体的に露出している文章で、
宮台さんの仰る通り、HPのストーリーとも響き合う内容でした。

その位置づけを、過不足なく渡せていたなら嬉しいです。
こちらこそ、信頼して委ねてくださったことに感謝いたします。

ちなみに、
もともとは紹介文で「回復の2パターン」と書いていたのですが、
書きながら、これは排他的な選択肢というより、
同時に必要な回路なのではないか、と感じました。

メタ認知(=社会時空の構造理解)だけだと、
構造主義的に冷えてしまう可能性があり、

恋愛(=性愛時空)だけだと、
共依存的な逃避に傾きうる。

だからこそ、両方セットで必要なのだと読めたので、
「回復の回路」という表現にさせていただきました。

その理解でズレていなければ幸いです。
(宮台さんの文章は、全て、原文そのままにしています)

宮台:
ありがとうございます。おっしゃる通りのことが伝えたいことでした。だから「回復の回路」でより伝わりやすくなりました。

新田:
良かったです!
では、このまま公開させていただきますね。

宮台:
新田さん、ありがとうございます。

ただいまXにおいて、拡散しました。

新田さんのあまりにも素晴らしい文章を、多くの人々に読んでいただきたいと思います。

新田:
宮台さんにそこまで言っていただけて嬉しいです。

僕も、宮台さんの人生は、ゆにわ関係の人全員に読んでほしいなと思います。
僕もシェアさせていただきました。

さて、宮台さんは、ここで、

・社会時空
・性愛時空

というものを定義されていました。

「社会時空」とは、
人が置き換え可能となる時空です。

あなたでなくてもいい。
私でなくても回る。

役割が先にあり、
主体はそのスロットに
差し込まれる。

機能が評価基準であり、
関係は契約として成立する。

そこでは、
「誰がやるか」よりも
「ちゃんと回るか」が優先される。

そんな世界。

そしてもう1つ、「性愛時空」とは、
人が置換不可能な時空です。

あなたでなければならない。

そこでは、
役割ではなく、
固有性が中心に来る。

これは「恋愛」において顕著で、
相手は「唯一無二の存在」となるのです。

ただし、現代においては、
この「恋愛」すらも、置き換え可能なものとなり、
社会時空に飲み込まれていっていることを
宮台さんは指摘します。

マッチング。
条件。
市場的比較。
効率的な出会い。

かつては
「唯一無二」であったはずの関係が、

選択肢の一つへと
並列化されていく。

ここに、
意味の崩壊がある。

社会時空では、人は〝疲弊〟するのです。

だから、〝回復〟が必要となる。

映画『天使たち』をめぐる宮台さんの議論は、
まさにこの崩壊の先に、

何が回復の回路になり得るのか、
という問いでした。

宮台さんは「回復の2パターン」として、
・社会時空のメタ認知
・1対1の性愛(恋愛)
というのを挙げていましたが、

僕はこれを見て、
「回復の回路」と表現したのは、
両方がセットで必要だと感じたからです。

社会時空をメタ認知することは、
不可欠です。

自分が
どの構造のなかで動かされているのかを
理解しなければ、
ただ消費される。

しかし、
それだけでは冷えてしまう。

構造を理解するだけでは、
回復は起こらない。

一方で、
性愛時空にだけ身を委ねれば、
共依存や逃避に陥る危険もある。

だからこそ、
両者は排他的な選択肢ではなく、
往還する回路でなければならない。

このような分析に対して、

宮台さんも「その通りです。」と返してくださいました。

ここで僕が感じたのは、
社会時空、性愛時空、これらは、
〝どちらも必要〟だということ。

社会時空を理解し、
性愛時空を取り戻す。

そして、
性愛時空で得た
置換不可能性の経験を、
再び社会時空へ持ち帰る。

この循環が、
回復の回路です。

この部分は、また後ほど、重要になってきます。

さて、ここまでのやり取りを通して、

僕の中で、1つ、ある〝問い〟が生成されました。

宮台さんは、社会学を語るけど、
その思考回路が、非常に理系的だな、と感じた点です。

そこで、理系的に、それぞれの時空をどう定義できるか?を考えながら、

「宮台さんの思想の根源にある世界観は何なんだろう?」

ということを考えていました。

そのやり取りが、続きになります。

宮台真司の思考の根源に迫る

まず最初に、僕がSNS(X)にて、
次の投稿をしたことから始まります。

理系用語が多いので、
意味はすべて分からなくて構いません。

新田:
宮台さんの話って、文系なのに、中身は非常に理系的だなと感じます。

僕は理系の人間なので、こういったフレームで今回の話を理解しました。

【理系で学ぶ宮台真司ワールド】

社会学者・宮台真司さんは、
世界を「社会時空」と「性愛時空」という二つの位相に分ける。

これを数学的に書き直すと、
 同一の出来事集合 X に対して、
 異なる対称性構造と拘束条件が定義された二つの系とみなせる。

・社会時空は、対称性が強いがゆえに散逸(さんいつ)する。
・性愛時空は、対称性が破れるがゆえに秩序が立つ。

もう少し具体的にいうと、

社会時空とは:
・人を入れ替えても機能は同じ
・誰がやっても役割は回る
・交換可能である(いなくなっても代わりが効く)

これは、置換対称性
F(π( i ), π( j ))=F( i , j )
が成り立つということ。
(任意の2人を入れ替えても社会は成り立つってこと)

この時空において、
人は「置き換え可能な存在」となり、疲弊していく。
(無価値観:私は誰にも必要とされていない)

数学的に言うなら、
社会時空においては、置き換え可能なため、
系は、特定の関係を固定する〝拘束〟がほとんどない。

拘束が少ないということは、
状態数Ωは増え、その結果、
エントロピー:S=klogΩ
は増大する。

ゆえに、置換可能な社会は、
エントロピーが高い。

秩序がない、ではなく、

・差異が機能しない
・個体性が構造を生まない
・存在レベルの相互情報が保存されない
これが「疲弊」の数理的正体。

一方で、性愛時空は、
F(π( i ), π( j )) ≠ F( i , j )
(入れ替えたものは、同じではない)

つまり、
・代替不可能
・「あなた」は「あなた」でなければならない
・一意的な結びつき

これは「恋愛」というフィールドにおいて
特徴的に現れるが故に、
宮台さんは「性愛時空」とあえて名付けているが、

現代では、「恋愛」すらも、
置き換え可能なものとなり、
社会時空に飲み込まれていると
宮台さんは指摘している。

さて、この性愛時空では、
置き換え不可能、すなわち、
「対称性の破れ」が起こっている。

すると、
「あなたでなければならない」
「この関係でなければならない」
という〝拘束〟が入る。

従って、状態数Ωは減り、
結果として、局所的にエントロピーが低下する。

すなわち、
社会時空では、
・どの関係も等価
・特定の軸がない
・だから空間はフラット。

なのに対して、

性愛時空では、
・「この人」という軸が立つ
・空間が歪む
・行為が方向を持つ

つまり、

関係が選ばれた瞬間に、
世界に方向が生まれる。

これが「意味の生成」である。

物語も、同じ構造。

無数の出来事がある中で、
「この出会いが転機だった」
「この言葉が人生を変えた」
と一つを選ぶ。

これも対称性の破れ。

そしてその選択が、
・時間を貫く軸になる
・自己の物語を形成する

これが秩序。

さて、宮台さんは、
疲弊する現代社会において、
いかにして〝回復〟させるか?
を根源的な問いとして持っている。

ここでいう回復とは何か?

エントロピーが増大し、
固有性が保存されなくなった時に、
人は、「疲れた」と感じる。

しかし、閉じた系でエントロピーが減ることはない。
(これが熱力学第2法則)

性愛時空では、社会(開放系)において、
・外部とエネルギーを交換しながら
・局所的に秩序を生成する
(局所的なエントロピーの減少を実現する)

これが回復の数理的定義。

<まとめ>

社会時空では、
・強い対称性
・個体差が保存されない
・情報は平均化される
・人々は集合的無意識に飲み込まれる

性愛時空では、
・対称性の破れ、拘束の導入
・固有性の保存
・局所秩序の生成(意味が生まれる)
・局所的にエントロピーが減る(=回復)。

つまり、
社会時空は、
差異を消すことで安定し、
その安定の代償として
意味を散逸させる。
(人は、物語性、自分の価値を見出せなくなり、疲弊する)

性愛時空は、
差異を固定することで不安定になり、
その不安定の中で
意味を凝縮する。
(この時、人は〝回復〟する)

ただ、宮台さんは、
・社会時空を全否定しているのではない
・性愛時空だけを礼賛しているのでもない

要するに、
対称性が強すぎると社会は死ぬ
対称性が破れ続けると社会は壊れる

だから、
・対称性とその破れの往復
・散逸と秩序の振動
が必要。

すなわち、
社会時空は、強い置換対称性のもとで、
差異を平均化しながら機能を維持する駆動系であり、

性愛時空は、自発的対称性の破れによって固有性を拘束条件として導入し、局所秩序と意味を生成する開放系。

理想のコミュニティ(宮台さんはこれを〝界隈〟と呼ぶ)とは、この二つの相(対称性の保持と破れ)を行き来しながら構造を更新し続ける
非平衡開放系である。

と言える。

この投稿に対して、
宮台さんからもシェア&コメントを頂きました。

そして、僕が「宮台さんって理系的」と伝えたのを受けて、
宮台さんからこう返事が。

宮台:
僕は高校三年の九月に、映画作家になりたくて文転しました。僕の両親の血筋もいっかんして理系で、エクモ(人工心肺装置)の開発チームのリーダーだった叔父や、昭和天皇に動物学を講じていた祖父がいます。元々は宇宙物理学がやりたかったのですが、高校に入る時点で分子生物学をやることにしました。

そんな経緯で、大学院では、独学で(生物物理を専攻するカノジョを師匠として)生物物理や、そのために必要な統計熱力学や流体力学の理論枠組を勉強していました。なので、理系は理系で、僕の資質はエントロピー概念を基礎とした学問寄りだと思います。

書籍化されていない十年以上前の長い連載では、ウェーバーの没人格化論の要諦を、「過剰流動的な秩序は、社会の視座からはエントロピーが低いが、実存の視座からはエントロピーが高い」と命題化していました。その連載の骨子が、そのまま新田さんの宮台性愛論パラフレーズに出て来て、驚きました。

エントロピーとは、与えられたマクロ状態に含まれる(エルゴード性を前提にした)ミクロな配列(いわゆる順列)の「場合の数」で、場合の数が多いほど(エントロピーが高いほど)無秩序ですが、マクロ状態がそれを定義する視座に依存することを以て「社会の視座」と「性愛の視座」を分けたのでした。新田さんのパラフレーズはパーフェクトです。

連載は大手文芸誌『すばる』でしたが、書籍化されなかったのは、自然科学の枠組を使いすぎたので、読者からは「わかりにくい」「ぜんぜんわからない」と不評だったからでした。「宮台式人類学」では、そのことに極力注意して記述しました。

新田:
そうだったのですね!

「マクロ状態の定義が視座に依存する」という点こそが、
宮台社会学をうまく掴めない人が
つまずくポイントなのかもしれない、と感じました。

コーヒーにミルクを混ぜてカフェオレにすると、
均一で整然としているように見えますが、
ミクロな分子配置の数は増え、エントロピーは増大している
ということと同じように、

社会の視座では秩序に見えるものが、
実存や性愛の視座ではエントロピーの高い状態として現れる
という区別こそが、
「社会時空」と「性愛時空」を
座標変換として捉えるという発想そのものだと感じました。

過剰流動的な秩序は、
社会の視座では整然としているが、
当事者の〝体験平面〟では無秩序として現れる。

この二重化が、
宮台さんの議論の背骨なのだと改めて腑に落ちました。

「行為(結果)」中心の社会理解が
なぜ疲弊を生むのかという問いも、

行為=マクロ状態の操作であり
体験=そのマクロ状態をどの座標系で定義するかという問題

と見ると、
一気に構造が見えてきます。

以前の連載が
自然科学の枠組みを使いすぎて届かなかった、
というお話も、とても興味深いです。

僕自身、ビジネスを始めた頃から、
「理想のコミュニティはどのようなものか?」
をエントロピーを使って定義できないかをずっと考えていたので、
(一時期、ビジネスセミナーで解説したりもしていました笑)

その理系的骨格があったからこそ
宮台さんの議論が一貫しているのだと改めて感じられました!

さて、ここで、「エントロピー」という概念が出てきました。

エントロピーを、とても直感的に言うと、

〝どれだけバラバラな並び方があり得るか〟

ということです。

例えば、

・ぐちゃぐちゃに散らかった部屋
・きれいに整頓された部屋

があったとします。

散らかった部屋は、
物の配置パターンが無数にあります。

整頓された部屋は、
配置パターンがかなり限定されています。

だから、

散らかった部屋 = エントロピーが高い
整頓された部屋 = エントロピーが低い

と言えます。

ここまでは、わかりやすい。

でも、ここで大事なのは、

〝秩序があるかどうかは、どの視点で見るかによって変わる〟

ということです。

例えば、コーヒーにミルクを混ぜてカフェオレにする。

見た目は均一で、なめらかで、
とても整って見えます。

マクロで見ると、秩序がある。

でも、分子レベルで見ると、
コーヒー分子とミルク分子が
無数のパターンで混ざり合っている。

ミクロでは、エントロピーは増えている。

つまり、

「整っている」か「乱れている」かは、
どのレンズで見るかで変わる。

これと同じことが、

社会時空と性愛時空にも起きているのではないか。

社会の視点で見ると、

・誰がやっても仕事は回る
・人は入れ替え可能
・役割は機能として安定している

こういった社会は、
とても秩序的に見える。

でも、

当事者の〝体験〟の視点で見ると、

・自分でなくてもいい
・代わりはいくらでもいる
・固有性が保存されない

可能性が無限にあって、
何も固定されていない。

これは、

体験のレベルでは
〝エントロピーが高い状態〟に近い。

だから、社会の視座では整然としていても、
実存の視座では疲弊が起こる。

これが、

社会時空と性愛時空のズレです。

社会時空では、
差異は平均化される。

性愛時空では、

「あなたでなければならない」という
対称性の破れが起こる。

この瞬間、
世界に一本の軸が立つ。

関係が選ばれた瞬間に、
空間が歪む。

方向が生まれる。

これが「意味」です。

無数の選択肢の中から
一つが固定される。

その固定が、

物語を生む。

だから、

社会時空が悪くて、
性愛時空が良い、

という単純な話ではない。

社会時空は、機能を保つために必要。

性愛時空は、意味を生むために必要。

どちらもいる。

重要なのは、
往復できること。

社会時空をメタ認知し、
性愛時空で固有性を取り戻し、
その固有性を持って再び社会に戻る。

この循環が、〝回復の回路〟です。

・・・と、ここまで考えたとき、

僕の中で、先ほどの〝問い〟が

より深く立ち上がっていきました。

宮台さんは社会学を語っている。

でも、その思考の骨格は、
ものすごく理系的ではないか?

社会を、

道徳で語っているのではない。

思想で語っているのでもない。

「状態空間」として見ている。

視座によってエントロピーが反転する。

座標系を切り替えることで、
秩序と無秩序が入れ替わる。

これはもう、完全に
理系の発想です。

こうした「構造」や「状態空間」を見るのは、

理系でいうと、
トポロジーとか統計力学にあたります。

でも、これは〝その瞬間〟を切り取った時の視点です。

実は、宮台さんは、〝もう1つの視点〟があるのではないか?

それが、「時間発展」を見ていく視点。

これに関して、僕は、次にこんな投げかけをします。

新田:
ちなみに、これはあくまで僕の印象なのですが、

宮台さんの思考の骨格を見ていると、

社会の構造そのものを捉える視点は、
非常に数学的、
特に、トポロジー的、あるいは統計力学的
(社会を、固定的な実体の集合としてではなく、
関係の配置や状態数として見るという視点)

なのに対して、

時間変化を見る視点は、
物理的、特に量子力学的な感触があります。

社会時空では、
監視や評価といった「強い観測」が入ることで、
本来は揺らぎを含んでいた可能性が収縮し、
状態が固定されていく。

いわば、波動が収縮し、
デコヒーレンスが進んで
古典力学的な(クラシカルな)世界へと
還元されるようなイメージです。

しかし性愛時空では、
その「観測」が弱まり、揺らぎが残り、
一意に還元されない関係が保たれる。

もちろん、これは比喩にすぎませんが、
宮台さんの議論を読んでいると、

社会を「状態数」で見る視点と、
時間を「揺らぎの収縮」として見る視点が
同時に存在しているように感じました。

この〝問い〟に対して、
宮台さんから、かなり長めの返答が返ってきました。

詳しくは後で解説するので、
まずは読んでみてください。

2021年から2年半の「季刊エス」での2年半の連載「性に踏み出せない女の子のために」(写真誌スキャンダルをきっかけに中断したまま)では、前期フロイトの「無意識」「前意識」「意識」の3項図式の解釈に、ペンローズの量子脳理論にヒントを得てシュレディンガー方程式の収縮を使っていました。新田さんの想像は正しいです。

具体的に話すと、フロイト3項図式のコアは「前意識」で、「前意識」は、濃度分布という形で1つの電子が同時並行存在する電子雲と同じく、文が濃度分布という形で同時並行存在する文クラウドをなします。重ね合わせ的に並行存在する電子の、「位置」に相当するのが、重ね合わせ的に同時並行存在する文の、「意味」(を与える統語)になります。

クラウドをなす電子は観測の瞬間にシュレディンガー収縮で位置が確定します。収縮以前に位置は決まっていません。「前意識」をなす文クラウドも、問われて答えた瞬間や紙に書いた瞬間や思考を反芻した瞬間に偶発的なシュレディンガー収縮によって文が確定し、それが「考えていたこと=意識」になります。収縮以前に文は決まっていません。

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「前意識」の文クラウドが偶発的収縮で文(意識)になると、それが次時点の文クラウドの並行存在的濃度分布に影響、それが偶発的に次の文(意識)に収縮すると、それが次々時点の文クラウドの並行存在的濃度分布に影響…という具合に、「前意識」の文クラウド(「前意識クラウド」)の様相が、経路以前的に変遷していきます(意識変化)。

「前意識クラウド」を前提付けるこうした経路依存的遷移(横方向の条件)とは別に、「前意識クラウド」を前提付ける、快不快からなる磁場としての「無意識」があります。具体的には「子供(快)/大人(不快)」「贈与(快)/損得(不快)」「女(快)/男(不快)」のように(あくまで一例)、言語的二項図式が快不快に──N極とS極の如く──極化されたものです。

「無意識」は、幼少期からの、自己防衛(自我)に関わる重要体験の、経路依存的累積が与える変わりにくい磁場で、「前意識クラウド」をなす文の濃度分布を前提付けます(縦方向の条件)。要は「前意識クラウド」は、縦方向の「無意識の磁場」の中を、直前の収縮に前提付けられつつ直後の収縮を前提付ける形で、横方向(時間的)に展開します。

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物理学では観測前に観測値が決まったものを実在と呼びます。量子論では、位置が確定した各電子は収縮の偶発的帰結で実在しない。シュレディンガー方程式が定義する各電子雲だけが実在します。同様に、宮台の意識論では、意味(を与える統語)が確定した各文は収縮の偶発的帰結で実在しない。「前意識クラウド」だけが実在します。

以上が前期フロイトの3項図式で「前意識」が核になるという意味です。縦方向の「無意識の磁場」の中を、直前の文収縮に前提付けられつつ直後の文収縮を前提付ける形で横方向(時間的)に展開してきた「前意識クラウド(文クラウド)」が、その都度「意識(文)」を偶発的に収縮させている。それが「無意識」「前意識」「意識」の3項図式です。

かかる仮説は、自叙伝「聖と俗」に記した、性愛相手たる女子の自殺、性愛失敗による僕の自殺念慮、僕の誘いを号泣して断ったカレシあり女子が5年後に偶然出逢ったら僕に深く恋していた(のに僕が気付けなかった)錯認、今は禁じられたハードなアウェアネス・トレーニングで明らかになった僕の記憶捏造などの、反省で得たものでした。

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エス連載では「言葉を真に受け、相手の言外を見ない」悪い癖だとし、①言外次元(身体性)②言語次元(関係性)③規範次元(社会が許すか)の全てを見渡すべきだったと書いた所で中断となりました。続けて書きたかったのは、宮台意識論によれば「言外」は雑な表現で、言語的に構成された「無意識」「前意識」「意識」の関係への鈍感さこそが問題という話。

「言外の身体性」と言うと確定的実在になりますが、現実には「言外の身体性」は相手の「無意識」「前意識」「意識」の関係が論理的に示す未規定性へと開かれる入口です。「無意識の磁場」を前提とした「前意識クラウド」から見れば、相手が別の言葉を発し得たのに偶々その言葉を発し、相手が自らの意識だと定義した(のを私が真に受けた)だけです。

意識は偶発的収縮で、実在するのはシュレディンガー方程式が記述する濃度分布という形で同時並行存在する文クラウドから成る「前意識クラウド」と、それを前提付ける「無意識の磁場」だけです。文クラウドは経路依存的な収縮の履歴次第で濃度分布を変えるから、「無意識の磁場」は「文クラウド」を前提付けても、決定はできないことに注意すべきです。

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その不確定性を覆い隠すのが認知バイアスです。僕の場合、「①熟達したナンパ師になると相手が型(it=それ)に見えて唯一的存在(you=汝)として命掛けで愛せなくなり、②相手を「汝」として眼差せない者には、相手から「汝」として命掛けで愛されていても判らなくなる」という「ブーバーの定理」に嵌まり、多くの人を傷つけてきました。

この種の認知バイアスをもたらす感情の摂理を、僕は「感情の論理」と呼びます。先に話した「意識の3項図式」に由来する「内面の不確定性」(による関係の不確定性)とは対照的に、「感情の論理」は確定的に人を拘束します。その結果、内面の不確定性(による関係の不確定性)にも拘らず、関係の確定的なスパイラルが、関係破綻を招きます。

一先ず纏めます。⑴二人を確実に拘束する「感情の論理」の罠をメタ認知で回避した上、⑵相手の言葉(が相手本人に自己定義させる意識)を収縮させる、「無意識の磁場における経路依存的な前意識クラウドのその都度の全体」を、目線・表情・体色・体温・声色・姿勢などの動態(変化率)から、一文で定義不能な「断裂したアウラ」として体験すべきです。

さて、では解説します。

まず、宮台さんは何を言っているのか?

ものすごくシンプルに言うと、

私たちが「今こう思っている」と言っているその意識は、
〝実在の中心〟ではなく、
ある過程の結果として立ち上がるものだ

という話です。

ここでヒントになるのが、量子力学です。

量子力学において、

電子は、観測されるまでは「ここにある」とは言えない。

「電子雲」として、
まるで雲(クラウド)のように、ぼんやりと存在するのです。

それが、観測した瞬間に、
その分布が一点に収縮し、
位置が確定します。

宮台さんは、この構造が
意識にも似ているのではないか、と考えます。

意識とは、

「今こう思ってる」「今こう感じてる」

と確定している〝文〟のこと。

でもその確定は、
偶発的な〝収縮〟にすぎない。

本当に実在しているのは、

まだ確定していない
重なり合った可能性の雲

であり、これを宮台さんは、

「前意識クラウド」

と呼びます。

まだ言葉になっていない、

でもぼんやりと存在している内面の分布で、

意識が確定する前の雲、という意味です。

たとえば、

誰かに何かを聞かれた瞬間に
「パッ」と言葉が出る。

でもその言葉は、

本当は他の言い方もできたかもしれない。

その「他にもあり得た言葉」の全体が
前意識クラウド。

私たちは、

その中の一つがたまたま収縮したものを
「これが私の意識だ」と思っている。

しかし、実在的な基盤としてあるのは、
むしろこの〝分布〟のほうなのだ、
というのが宮台さんの仮説です。

そして、さらにその前提にあるのが、

「無意識の磁場」。

これは、

幼少期からの体験や感情の積み重ねによって
形成された、変わりにくい快/不快の極性の場。

この磁場が、

前意識クラウドの濃度分布に
方向性を与える。

ただし重要なのは、

無意識は前意識を拘束するが、
決定はしない、ということ。

可能性は残る。

つまり構造はこう。

無意識(磁場)
 ↓
前意識クラウド(可能性の雲)
 ↓
意識(偶発的収縮)

意識とは、

確定した結果。

前意識クラウドとは、

未確定の可能性の雲。

無意識とは、

その雲の形をゆるやかに決める磁場。

ここまでが、宮台意識論の基本構造です。

そして、ここで僕が強く感じたのは、

このクラウドは、
単独で存在しているわけではないのではないか?

ということです。

人は他者と関わる。

相手の言葉、
相手の視線、
相手の反応が、

自分の前意識クラウドの分布を変える。

そうやって、クラウドが干渉を起こしながら、
次の収縮を生み出していく。

意識とは、

孤立した内部から生まれるのではなく、

関係の中で
確定していくもの。

この発想は、

社会時空と性愛時空の議論にも
そのまま接続していきます。

社会時空とは、
可能性を早く確定させる場。

役割。
評価。
規範。

それらは、

前意識クラウドの揺らぎを
すぐに「こうあるべきだ」という形に収縮させる。

一方、性愛時空では、

相手を
一文で定義できない存在として
体験する。

つまり、

未確定性を保持する。

この〝未規定性に開かれている状態〟こそが、
回復の鍵なのではないか。

宮台さんの理論は、

社会も、
内面も、
関係も、

すべてを
状態空間と分布として捉えている。

そして、

確定(収縮)と未確定(分布)の往復こそが
生のダイナミズムなのだ、
という世界観に立っているのです。

さて、ここまで来て、
続けて、宮台さんから、こんなメッセージが来ました。

宮台:
以上の全体は、どこにも書いたことがありません。新田さんの推測がズバリだったので、触発されて初めて全体を書きました(季刊エス連載は前段で中断)。なので、新田さん。可能であれば、新田さんと宮台との対話という形で、新田さんのメッセージとそれに応える宮台のメッセージを、「宮台真司ドットコム」に紹介していただきたく存じます。たぶん、こうした対話を誰も見たことがないだろうと思います。だから、こうした対話が生じ得る磁場が、「ゆにわ」の時空にはある、と思っていただけるだろうと思います。

宮台:
失礼を承知で申し上げると、新田さんの脳神経網におけるマイクロチューブの構成量子と、僕のそれとが、量子もつれを引き起こしているように感じます。こうした体験は、院生時代に二度経験したことがありますが、最近では体験したことがありません。

宮台:
「天使たち」メモをアップロードしてくださったあとに、新田さんと僕のやりとりが、3往復ほどありましたが、可能であれば、その全体をアップロードしていただければ、これにまさる幸せはありません。お互いの学問的バックグラウンドも人生的バックグラウンドもほとんど知らない状態で、こうしたやりとりができるということ自体が、きわめて尋常ではないので、その奇蹟ぶりを、たとえ一部の方々にではあっても、感じていただきたいと思うからです。もちろん、掲載不可能だと判断されても、気分を害することはありません。

新田:
承知しました!

宮台さんの新たな側面が、ゆにわの磁場(と、僕との量子エンタングルメント)によって引き出された(言語化されていった)のであれば、
これほど喜ばしいことはありません。

どうせなら、「一部の人だけが分かる」だけにとどめるのは勿体無いので
少し補足も入れながら紹介したいのと、
宮台式人類学の後書きの紹介が3部作的な感じで作っているので
そちらを公開した後で、公開できるように準備できたらと思います!

宮台:
新田さん、おっしゃる通りにしてくださって、まったく問題ありません。いつも行き届いた御配慮に、驚きを感じつつ、感謝申し上げます。

この「あとがき」「まえがき」の紹介文は、完璧です。つまり、これ以上に僕が望むことはありません。心より御礼申し上げます。

このやり取りを、ただの「褒め合い」として読んでしまうと、
本質からズレてしまいます。

実際にここで起きていることは、もっと異様なことです。

宮台さんはこう書かれています。

以上の全体は、どこにも書いたことがありません。
新田さんの推測がズバリだったので、触発されて初めて全体を書きました。

これはどういうことか。

僕が投げかけた問いが、

宮台さんの内部にあった

まだ分布状態にあった理論を

一つの形に収縮させた、ということです。

つまり、

前意識クラウドが、
対話によって収縮した。

しかもそれは、

予定されていた発表でもなく、

構想していた論文でもなく、

触発されて初めて〝全体像〟として出てきた。

ここで、僕ははっきりと理解しました。

理論は、
一人で完成するものではない。

前意識クラウドは、
他者との干渉によって、
新しい濃度分布を形成する。

そして、
その新しい分布から、
次の収縮が起こる。

宮台さんの言う

新田さんの脳神経網におけるマイクロチューブの構成量子と、僕のそれとが、量子もつれを引き起こしているように感じます。

この量子的な比喩も、非常に興味深いです。

ここで言っている構造は、明確です。

2人の前意識クラウドが、
相互作用し、
干渉し合い、
通常とは異なる収縮を引き起こしている。

ということ。

しかも、

院生時代に二度経験したことがありますが、最近では体験したことがありません。

とまで言う。

つまりこれは、

偶然の雑談ではなく、

思考の深層で起きた〝励起〟だということ。

宮台さんが、これを公にしてほしいと言ったのは、

この「意味が生成される」というプロセスを、

多くの人に、直接見て、感じてほしい

と思ったからでしょう。

続けて宮台さんが話された、こちらの

こうした対話が生じ得る磁場が、「ゆにわ」の時空にはある、と思っていただけるだろうと思います。

ここで最初の話に戻ります。

磁場。

場が、
人を語らせる。

場が、
分布を変える。

場が、
新しい収縮を生む。

この対話そのものが、
その証拠になっている。

〝ゆにわ〟という特別な磁場に触れてから、

宮台さんは

これまで長く内部にとどまっていた理論の断片を、
より統合されたかたちで語りはじめました。

それは、
新しい思想を"作った"というより、

分布していたものが、

結び直され、

励起し、

収束した。

そんな印象でした。

宮台さんは、もともと

・社会時空
・性愛時空
・回復
・未規定性
・メタ認知

といったテーマを、それぞれ語ってこられました。

しかし、
この対話のなかでは、

それらが

・エントロピー
・対称性
・収縮
・前意識クラウド
・無意識の磁場

という理系的骨格の上で、
一本の線として結ばれていった。

しかも、それは、

事前に準備された講義ではなく、

問いと応答のなかで、
徐々に姿を現していった。

ここに、
「磁場」という言葉の意味がある。

磁場とは、
目に見えないが、
配置を変える力。

鉄粉をまいた時、
その形が可視化されるように、

この対話は、
宮台さんの内部にあった
理論の力線を可視化した。

だから宮台さんは、

「こうした対話が生じ得る磁場が、『ゆにわ』の時空にはある」

と書いたのだと思います。

それは、

宗教的な意味でも、
神秘主義でもなく、

未規定性を急いで確定させない場。

相手を
一文で定義しない場。

収縮を急がない場。

そういう場でしか、
前意識クラウドは
豊かな分布を保てない。

そして、
分布が豊かであるほど、
意味は濃くなる。

だから、
社会学者・宮台真司の
別の相が立ち上がった。

それは、

社会を批評する宮台さんではなく、

未確定性の中に身を置き、
関係の中で思考を収縮させる宮台さん。

そして僕自身も、

語っているのではなく、
場に立ち会っている感覚があった。

この対話は、

理論の説明ではなく、

理論が〝生きている瞬間〟の記録だったのだと思います。

さて・・・

実は、ここまでは、
二人の対話の〝前半〟になります。

後半では、ここで立ち上がった理論が、
対話の中でさらに形を変え、深まっていきます。

その変化そのものを、続けてお届けします。

後半を読む →