宮台真司&新田祐士の対話(後編)
宮台真司.comを編集しています、新田です。
今回は、前回の続きで、
宮台さんとの対話の<後編>を
お届けいたします。
・「社会時空」と「性愛時空」という二つの時空
・エントロピーという概念を通して見た秩序と疲弊
・「前意識クラウド」という意識の分布モデル
といったテーマを扱いました。
しかし、あれはまだ入口でした。
前半で浮かび上がったのは、
〝意味がどのように生成されるか〟
というプロセスそのものです。
場が揺らぎを生み、
分布が変化し、
収縮が起こる。
理論が説明されたのではなく、
理論が対話の中で〝立ち上がる瞬間〟が
そこにはありました。
僕は、さらにこれを深めてみようと、
様々な質問を投げかけていきます。
そこから、どんな新たな意味が生成されていくのか?
続きをご覧ください。
脳科学と数理精神医学から見た「社会時空」と「性愛時空」の直和分割
新田:
宮台さん
今回のご説明を拝読して、
僕自身が以前から感じていたことと、
かなり強く響き合っていると感じました。
僕もかねてより、
「思想とは、無数の状態が重なり合った分布のようなものではないか」
と考えてきました。
そもそも「私」という単一の意識が最初からあるのではなく、
常に他者との関係や場の影響を受けながら、
揺らぎの中で立ち上がってくるものだと感じています。
「社会時空」においては、
・どう評価されるか?
・どう見られるか?
・正しいか間違っているか?
といった強い観測が常に入り続けることで、
前意識クラウドの自由度が減り、
同じ収縮パターンが繰り返されてしまう。
=これを〝疲弊〟と宮台さんは呼んでいるのではないかと感じました。
量子比喩で言えば、
干渉項が失われ、
状態が古典化していくようなイメージです。
一方で、「性愛時空」においては、
行為よりも体験が重視されることで、
観測が緩み、揺らぎが保たれる。
意味が一意に固定されず、
別の収縮パターンが許される(=回復)。
つまり、
無意識の磁場(根源の磁場)
⇩
前意識クラウド(可能性分布)
⇩
収縮(意味・出来事)
⇩
次の分布の変化
という循環の中で、
思考や意味が生成されていくのだと理解しています。
さて、少し補足させていただきます。
(前回の復習も交えながら、解説していきます。)
今回、僕が焦点を当てたのは、
〝疲弊〟と〝回復〟についてです。
宮台さんは、
「社会時空だけしかないと、人は〝疲弊〟してしまう」
という話をされていました。
なんとなく、直感的には分かりますが、
もう少し厳密に考えてみたいと思います。
前回(前半にて)、
人の意識が確定する前の、
様々な思考が重なり合った可能性の雲として、
「前意識クラウド」
があるという仮説を宮台さんは提示されていました。
無数の思考が重なり合い、
雲(クラウド)のように存在しているものが、
収縮し、1つの思考となる。
これを私たちは「自分の思考」と考えるのです。
・・・ということは、
本来なら、前意識クラウドの中に、
まだ言葉になっていない可能性が
いくつも揺れている
ということになります。
なのに、現代の社会においては、
・評価
・正誤
・格付け
・監視
といった〝強い観測〟が、常に入り続ける。
すると人は、
・どう評価されるか?
・どう見られるか?
・正しいか間違っているか?
ばかりを気にして、
その結果、
可能性の分布が痩せていく。
つまり、別の自分になれる余地が減っていく。
そして、
毎回似たような言葉に収縮し、
毎回似たような行動に収縮し、
毎回似たような自己物語に収縮する。
これが、〝疲弊〟です。
この、
「観測が強いと、収縮する」
というのは、非常に量子力学的な世界観です。
もちろん、量子論はミクロな系の話なので、
この法則がそのまま適用できるわけではないですが、
世界の見方の構造が、
どこかで「同型的だ」と感じます。
(なので、「量子比喩」と表現させていただきました。)
一方で、〝回復〟とは何なのか?
僕は、ここがいちばん重要だと思っています。
疲弊が
「収縮の固定化」
だとするなら、
回復は、
「分布がもう一度、豊かになること」
です。
言い換えると、
〝別の収縮が起こり得る状態に戻る〟
ということ。
社会時空では、観測が強すぎる。
評価されるための言葉。
間違えないための言葉。
正しさを証明するための言葉。
そういう言葉だけが、
毎回、同じように収縮していく。
その結果、
思考が痩せる。
体験が痩せる。
自分が痩せる。
でも、性愛時空では、
その観測が、少し緩みます。
ここでいう「緩み」とは、
何もしない、ということではありません。
むしろ逆で、
相手を一文で決めつけない。
自分を一文で決めつけない。
その〝決めつけない態度〟が、
観測を弱めるのです。
すると、
前意識クラウドの中にあった可能性が、
すぐには潰れない。
未確定性が、残る。
だから、別の収縮が起こる。
そしてその「別の収縮」が、
「あ、こういう言い方もできたんだ」
「あ、こういう感情もあったんだ」
「あ、こういう解釈も可能だったんだ」
「あ、こういう生き方してもいいんだ」
という形で、
自分の内側の分布を、もう一度広げる。
これが、〝回復〟です。
つまり、宮台さんの言う〝回復〟とは、
単に気分が良くなることではなく、
〝可能性が戻ってくること〟
です。
そして、ここが重要なのですが、
回復は、
社会時空からの〝逃避〟ではない。
性愛時空は、
社会時空と切り離された別世界ではなく、
社会の中で摩耗しないためのホームベースである。
僕が「回復の2パターン」という部分を
「回復の回路」と言い換えたのは、まさにここです。
社会時空のメタ認知だけでは、冷える。
でも、性愛時空だけでは、閉じる。
だから、
損得のロジックの中で生きながらも、
性愛時空を保持し続けること。
この同時保持こそが、
宮台さんの言う〈社会〉である。
こんな風に僕は理解したのですが、
これを受けて、宮台さんから、
さらに新しい理論を、HPに掲載してほしいと依頼されます。
それが、こちらです。
最先端の脳科学と数理精神医学から見た「社会時空」と「性愛時空」の直和分割
新田さんのリプライに触発されて、今まで書いて来なかった最近の脳科学に関連する脳構造について宮台の仮説を記します。脳科学たとえば数理精神医学の最先端は、予測誤差モデルとそれを含む予測符号化モデルです。後者は各所で紹介したので前者を紹介します。
自らの反応から1予測を上回る利得を得たら反応を強化、2下回る利得を得たら反応を抑制する強化学習のモデルです。上回る利得を「報償(快)」、2下回る利得を「制裁(不快)」とすればパブロフの条件付けモデルだと判ります。これは動物にもある「中脳」の機能です。
予測誤差モデルは生成AIに実装されます。具体的にはプロンプトに対する応答──更問い回数や滞留時間──が事前予測を上回れば「報償」として機能して同種の応答が強化され、下回れば「制裁」として機能して抑制される。高度な生成AIも現時点「中脳」モデルなのです。
「中脳」の強化学習はドーパミンを媒介にします。基準より多いドーパミンは強化学習へのエネルギーを増大させます。後で話す「幸いhappiness」ならぬ「もっともっとmore&more」の「欲求want」に関わります。薬物による人為的なドーパミン分泌が嗜癖をもたらす所以です。
他方、人の「大脳」はドーパミンならぬセロトニンやオキシトシンを媒介に、欲求ならぬ幸いを体験させます。「中脳」的欲求の「充足による満足」や「不充足による不安や嫌悪や怒り」を情動emotionと呼び、「大脳」的な幸福の充足や不充足がもたらす感情sentimentと分けます。
人で言うと、「中脳」は「危険・不便」を不快として回避、「安全・便利」を快として追求します。「大脳」は「孤独・寂しさ」を回避、「仲間といると楽しさ一杯」の幸福を追及します。脳構造はゲノムに基づくので、「危険・不便」回避ゲノムと「孤独・寂しさ」回避ゲノムがある訳です。
「大脳」を欠く動物も母が子をケアする時にオキシトシンが出ます。危険を顧みないケアという贈与を可能にするのがオキシトシン。「大脳」の発達は、母による子のケアを促すオキシトシンを、数多の人間関係に於ける危険を顧みない「愛」や「絆」を促す機能に拡張します。
この拡張で集団生存確率(を上げることで個体生存確率を上げることでゲノム生存確率を)上げて来たのがヒト。獲物をその場でシェアする類人猿を超え、20km離れた家族や仲間の為に獲物を運んでシェアするのも、オキシトシンがカバーする人間関係の拡張によるのです。
「中脳」による損得(快不快)が動物的で、「大脳」による幸不幸が固有に人間的なのは、この進化生物学的展開が基盤ですが、近代以降「あなたの為に死ぬ」大脳的な贈与の構え(対幻想)が「皆の中でポジションを取る」中脳的な損得の構え(共同幻想と自己幻想)に席巻されて行く。
「危険・不便」回避ゲノムが速攻的、「孤独・寂しさ」回避ゲノムが遅効的だからです。「危険・不便」は直ちに体験され、「孤独・寂しさ」は気付き難いので、「安全・便利」の追及で人間関係より市場と行政で便益を調達する「システム世界」が拡大、「生活世界」の空洞化で孤独化する。
即ち、「中脳」的「危険・不便」回避のゲノムと、「大脳」的「孤独・寂しさ」回避のゲノムは当初両立可能だったのが、速攻的な「危険・不便」回避ゲノムに応える近代化で、「不快」が消えゆく一方、遅効的な「孤独・寂しさ」回避ゲノムに紐付いた「不幸」が蔓延するようになるのです。
先日英語大学院で重い質問がありました。第一:「幸福」も快で「不幸」も不快ではないのか。YES。現に「大脳」から「中脳」にフィードバックがあるからです。でもそれが「数多の不幸を経て到った幸福こそが快」とのメタ認知で、敢えての「不幸」の甘受を快として体験させます。
第二:善をすれば救い、悪をすれば救わぬ「神」(を戴く宗教)は、「中脳=動物脳」を利用するのか。NO。善悪概念を使う質問は一神教を前提としますが、万物を人とするアニミズムは行為毎の「バチ」を考える一方で、唯一神は「行為」ではなく救済資格で「人」を裁くからです。
これは、書記言語を使う文明段階で「一神教」が生まれた理由を説明します。書記言語の収税記録が広域統治を可能にし、税をとれるヒトだけが「人」となります。他方、自らが書いた反応・への反応...なる再帰的反応の累加が、経路依存的=唯一的な自己物語selfを与えます。
動物の情動emotionは「生体防衛」の為の機能。人の感情sentimentは「自己selfの防衛(=自我ego)」の為の機能。だから「善なる存在であり続けたい」との「自己貫徹homeostasis of the self」が、「生体防衛」を超克して「幸福」になるために自殺や他者貢献を促し得るのです。
「宮台式人類学」が述べる通り「社会時空と性愛時空の直和分割」は元々あった訳ではない。1万年前からの定住化で、統治者に法(暴力的威嚇)で裁かれないよう損得で生きる「社会(複雑な分業領域)」と、昔ながら絆と愛に生きる「性愛(のエロス領域)」が峻別されてからです。
「社会の視座」からは、エロス領域をホームベースに、法領域をバトルフィールドとして生きる往還が成員から動機付け(力)を奪わず社会秩序を維持させた一方、「実存の視座」からは、その往還が社会での傷付きやすさや生きづらさ(による力の喪失)から成員を守ります。
「大脳」を、言語野によるロゴス能力を前提とした前頭前野による情動と感情の意志的制御能力から見る頓馬が溢れます。「行為より体験」を重視する視座からはケミカルタンクとしての「中脳」のドーパミン媒介と「大脳」のセロトニン&オキシトシン媒介の違いが重要です。
その違いが、「社会の時空」の低エントロピー(秩序)と「性愛の時空」の低エントロピー(秩序)を、体験に於ける状態数の異なる数え方で定義します。宮台語では「社会+性愛=〈社会〉」で、その〈社会〉の要素は、体験としての違いを与える意味システムが定義します。
前に話した通り、〈社会〉の要素はコミュニケーション(選択連結)つまり「相手の体験を待って完結する行為」で、その体験は(言外の体験であれ)意味システムが定義します。適用される意味システムが違えば、同じ行為に見えても体験が違うので、全く別物になるのです。
少年らが野球をする広場に降り立った火星人は、物理的観察をしても少年らが共有する意味システムが判らず、少年らの営みの要素を同定できません。混ざって遊ぶ内に最初は笑われたのが徐々に笑われなくなります。これが意味システムの学習で、ヒトも全く同じ。
ならば、意味システムが対象を数えられるものにする(ことで状態数を定義可能にする)とはどんな事態か。それを正確に記述するには何倍もの紙幅が要るので、25年前に書いた雑誌『KEI(経)』「連載・社会システム論」第5回(https://is.gd/8Fqy9V)に暫定的に譲ります。
さて、ここからどんどん内容が複雑になっていくので、
噛み砕いて整理しましょう。
宮台さんは、これまでの「社会時空と性愛時空」を、
〝脳構造レベルで〟捉え直そうとしているのです。
それが、
・中脳
・大脳
の区分です。
注:
ただし、脳は単純に中脳と大脳で分業しているわけではありません。
ここでの区別は、あくまで進化生物学的・機能的なモデルとして
わざと単純化した整理です。
まず、中脳は、
・危険を回避する
・不便を避ける
・快/不快で学習する
いわば「損得」の脳。
これは「強化学習のモデル」として動く、
動物に顕著に見られる機能です。
つまり、
報酬が増えれば強化し、
損をすれば抑制する、という
単純な脳です。
一方で、大脳は、
・孤独を避ける
・絆を求める
・贈与を可能にする
「幸/不幸」の脳。
(中脳に比べて、より〝長期視点〟で考える脳です。)
ここで重要なのは、
快と幸は違う、という点です。
快は、
ドーパミンによる「もっと欲しい(more&more)」。
短期的で、ドラッグ的です。
つまり、その瞬間だけのもので、
すぐに枯渇します。
一方で、幸は、
セロトニンやオキシトシンによる「満ち足り」。
長期的に持続するものです。
※セロトニンは、「脳」よりも「腸」で作られることが多いです。
また、先ほどの〝回復〟というものは、
こう言い換えることができます。
〝回復〟とは、
中脳の強化学習(もっともっと)から、
大脳の幸福回路(つながり・贈与)へと
重心が移ること。
これが、〝回復〟の生物学的基盤だと
宮台さんは言っているのです。
そしてここで、非常に重要な話が出てきます。
〝なぜ近代社会では疲弊が広がるのか?〟
それは、
「危険・不便」回避は即効性があり、
「孤独・寂しさ」回避は遅効性だからです。
安全・便利はすぐに実感できる。
しかし孤独は、ゆっくり進行する。
社会時空は、
横方向に選択肢を広げます。
より多くの出会い。
より多くの仕事。
より多くの評価軸。
しかしその広がりは、
どれも等価で、
どれも代替可能で、
どれも〝入れ替え可能〟なままです。
一方で、性愛時空は、
「あなたでなければならない」
なので、横の選択肢を減らします。
けれどその代わりに、
縦方向へと深まる。
同じ人と、
同じ関係の中で、
同じ出来事が、
何度も違う意味を持ちはじめる。
つまり、
前意識クラウドの〝干渉〟が起こって、
新たな〝意味〟が生成されていくのです。
さて、ところで、
僕がここで着目したのは、
「社会時空と性愛時空の直和分割」
と表現されていた点です。
「直和(ちょくわ)」とは、数学の言葉で、
「社会時空⊕性愛時空」
と書いたりします。
これは、両者の時空が、
お互いに混ざり合うことなく、
独立に存在している
という状態のことです。
例えば、平面では、
「横軸(x軸)」と「縦軸(y軸)」は、
直和しています。
横は横のまま、
縦は縦のまま。
お互い混ざりません。
でも、点は常に(横・縦)の両方を持っている。
こういうイメージ。
確かに、そう見た時に、
両者の構造が非常にクリアになります。
社会時空は、横方向に広がる。
より多くの選択肢。
より多くの役割。
より多くの関係。
しかし、それらは基本的に等価で、
入れ替え可能。
一方で、性愛時空は、
縦方向に深まる。
「あなたでなければならない」
という軸が立つ。
同じ人と、
同じ関係の中で、
同じ出来事が、
時間とともに意味を変えていく。
このように、
横の拡張(社会時空)と縦の深化(性愛時空)が
別々のロジックとして同時に成立しているという意味では、
「直和」という言葉は、構造を見事に表現しているなと思いました。
しかし、ここで同時に、
僕の頭にはこんな疑問が浮かびました。
「本当に、互いに混ざり合わないのだろうか?」
この疑問を解消するため、僕は宮台さんに、こんな問いをぶつけてみたのです。
新田:
宮台さんへ
非常に興味深い資料を、ありがとうございます。
前半の話は、僕自身、多くの人にビジネスを教えてきて、
ドーパミン的な快楽と、セロトニン的な幸せを
ごっちゃにしてしまってる人が多いことを痛感しているので、
そことも共鳴する話でした。
さて、後半に書かれている
宮台さんの仮説を見て、感じたことを率直にぶつけさせてください。
(何らかの刺激となって、新たな意味の生成が起こればと願いつつ。)
僕は、宮台さんは、世界を見る際、
2つのモードを使い分けておられるように感じています。
1つは、トポロジーや統計力学的な「構造を見る視点」。
ここでは状態空間を分解し、エントロピーを計算し、
秩序の成立条件、そして破綻臨界点を客観的に眺めている。
もう1つは、観測者を含んだ生成の視点。
そこでは状態は固定されたものではなく、
経験の中で更新されるものとして現れる。
(これは、量子力学的な比喩を含んだ生成論的な視座です。)
その上で、
宮台さんが「直和」(社会時空⊕性愛時空)と
表現されていた部分について。
これは、構造分解としては極めて精確だと感じます。
評価関数も状態数の数え方も異なる以上、
基底は独立している。
ただし、直和であることと、時間発展に対して不変であることは必ずしも同義ではないと思われます。
もし、体験空間を
H=S⊕E
(S:社会時空、E:性愛時空)
と置いたとき、
重要なのは、この分解が時間発展に対しても不変かどうか、という点ではないでしょうか。
時間発展を与える作用 U(t) が
U(t)S⊂Sを満たすと言えるのか?
もし満たさない(U(t)S→Eの遷移がある)のであれば、
Sのベクトルが時間の中でEへ射影されることもあり得る。
宮台さんご自身が、社会時空での徹底的な経験と傷つきを経て、
性愛時空の重要性に気づかれたとすれば、それはまさに、
社会的体験が生成の過程で性愛的次元へと遷移した事例とも読めます。
構造としての直和と、生成としての横断は両立するのではないか。
そのように理解すると、両者の関係はより動的に把握できるように感じました。
この点について、ぜひお考えを伺えれば幸いです。
さて、ここで、数学用語で色々書かれていますが、
伝えていることは非常にシンプルです。
「社会時空」と「性愛時空」は、
構造としては独立しているかもしれない。
しかし、
人の人生の中で、
それらは本当に行き来しないのか?
社会での挫折や傷つきが、
ある瞬間、
「意味の問い」へと変わることはないのか?
損得で生きていたはずの経験が、
ある時、
「あなたでなければならない」という気づきへと
転換することはないのか?
もしそうだとすれば、
直和とは、固定された二領域の分割ではなく、
常に緊張を孕んだ、
もっと動的なバランスなのではないか。
この問いは、
決して宮台さんの提示する構造そのものを
否定するものではありません。
むしろ、その構造を、
「時間の中でどう生きるか」
という問題に引き戻すものです。
この投げかけに対して、
宮台さんから、新たな資料が送られてきました。
新田さんの問い掛け(社会時空と性愛時空の境界揺動)に対して
「社会時空」と「性愛時空」では情報処理の違いが異なる状態数を与える
答える前に直前の文章を補足します。「体験は(言外の体験であれ)意味システムで定義される」とは? 僕は「言葉の外(言外)」というこれまた「言葉」を使う。言外の体験を「思い出す」よう促す為です。最新のヨハネ福音書研究はイエスの言説戦略をそうしたものだとします。
釈迦族クシャトリヤ(騎士階級)の釈尊は誰よりも自意識の人。自意識の檻という自意識を抱き「自意識の外」を希求します。自意識は言語的ですが、炎と同様、自己という体験に対応する実体はない。体験をもたらす縁起(前提付け連関)があるだけ。有・無ではない「空」。
般若経いわく、色(言語対象)即是空(仮体)だが、空(仮体)即是色(言語対象)でもある。後段は、前段に執る上座部の「空」概念の実体化(自意識化を前提とした概念実在論化)への戒め。龍樹まで続く「2つの四字熟語」(中道)はこの概念実在論化を戒めるこれまた「言葉」です。
理論的にはクオリア(言外の非言語的体験質)を呼び出す場合も言語的です。元々言語はそうしたものだからです。脳科学の「予測符号化」(僅かな徴候のみで十全な認知と同等の反応を生む自由エネルギー最小化)の予測(体験)の符号(徴候)として、言語が誕生したからです。
3連語に及ぶ鳥類や鯨類の言語はそうしたもの。仲間同士が共有する予測符号を仲間同士で交わし合って反応(遂行)の引き金を引き合うのです。やがて文明化で「予測符号化」は「言語的予測符号化(予期化)」に移行。言外(予測)ならぬ言語(予期)を呼び出すものに縮みます。
書記言語が文明化(広域統治化)と統治をもたらします。統治の視座からは言語が言外を呼び出す事態が秩序のノイズとなり、人(万物)がヒトに縮む動きと並行して言語が言語のみを呼び出すもの(つまりパラフレーズ可能な記述)へと縮み、それが通常の言語観になります。
『宮台式人類学』に書きましたが、釈尊と五百年後のイエスに言説戦略は、「言語的体験のみを呼び出す言語」から「言外の体験を呼び出す言語」へと開くという目的を共有していますが、般若経が記す通り、これまた一つの言語ゲームであって意味システムに服属します。
次に、社会システムの要素は「コミュニケーション(選択連結)=相手の体験を待って完結する行為」としましたが、複雑な分業編制を前提とした加工品が溢れる文明以降の社会では、加工品の制作行為は相手の体験を待たずに完結する行為ではないか、との疑義があり得ます。
芸術作品を切口にします。芸術作品の制作も加工品の制作の一種ですが、芸術作品を制作する行為は鑑賞者(相手)の体験を待って完結し、その体験は社会毎・時代毎のコード(有用な言語的二項図式)を前提とします(ネット検索で読める宮台歌謡曲論を参照して下さい)。
非芸術的な加工品(スマホや車)はどうか。ハイデガーいわく、加工品はそれを有用な道具だと「体験」させる潜在行為集合・を前提付ける分業編制を待って初めて「意味」を持ちます。つまり加工品一般の制作行為もまた相手(消費者・利用者)の体験を待って完結するのです。
芸術作品を含め、モノ(加工品)を介在させることで、コミュニケーション(相手の体験を待って完結する行為)が、より離れた空間や時間に届きます。かかる距離差・時間差のあるコミュニケーションも社会システムに含まれます。だから行為よりも体験に注目するのです。
専ら行為に注目する従来の社会学はこうしたコミュニケーションの遠隔性を取り逃がします。それに比べ、体験に注目する(ので「相手の体験を待って完結する行為」に注目する)宮台の枠組みが、「体験=情報」に注目するがゆえに時空の遠隔対象性を取り扱えるのが判ります。
かくて、「社会時空(ドーパミン媒介)と性愛時空(オキシトシン媒介)の直和分割」が、「社会時空」で有意味な「情報」が「性愛時空」では無意味で、「性愛時空」で有意味な「情報」が「社会時空」では無意味だ、という事実に対応するのが判ります。だから情報論に移行できます。
ここからが答え。自叙伝に記した、僕が長く唯一的に愛されていた事実に気付けず生じた悲劇(告白を断ったら自殺した)は、かつて「性愛時空」を定義していた重要な情報に関するリテラシーを僕が失っていたのが原因です。でも劣化していた僕は問題を掴めず鬱化します。
「僕の多股的性愛を知るのにキャリアを汚すな」と断ったのでした。大蔵省キャリアに内定しつつ裏界隈に出入りする美しい彼女の両面を知るのは確かに僕だけ。としても、恋心がないのにイエスと言うべきだったのか。バレる嘘を付かない誠実さは誤りではなかったはず。
当時の僕が恋愛感情や嫉妬を抱けないことを苦にしていたのを彼女は知っていた。告白にイエスと答えたら直ちに嘘だとバレる。どうしたら良かったか。全く判らず力を失います。鬱明けして石垣島の「ヒルギの森」で覚醒し、全原因が僕の感情的劣化にあると判りました。
3年半付き合って彼女の命掛けの恋心を見抜けなかったのは、僕が命掛けの恋ができなくなっていたから。ブーバーが語っています。相手を「汝」として見る者だけが相手から「汝」として見られていることが判ると。僕には相手を「汝」として見る能力が欠けていました。
「性愛時空(エロス生活)」で有意味な情報は、相手を置換不能な「汝」だと体験することが前提で、その体験がプロトコル情報になります。「社会時空(法生活)」で有意味な情報は、相手を置換可能な「ソレ」だと体験することが前提で、その体験がプロトコル情報になります。
相手から「自分は汝」とか「自分はソレ」とかの信号が発信されてはいません。大脳からの「相手は汝」という情報が、後続の情報処理の引き金を引き、この情報処理連鎖がない場合に、中脳からの「相手はソレ」という情報が、後続する情報処理の引き金を引くという機序です。
僕は自叙伝に書いた奇跡的な偶然により、誰が相手でも大脳から「相手は汝」という情報が出ない状態──ナンパ地獄──を、脱します。以降、毎年度の学生らを「相手を汝として体験する能力」の物差しで観察し、30年弱に渡り一貫して能力が低下してきた事実に気づきます。
雑には、大脳から「相手は汝」との情報が出ない状態で「性愛時空」に関わる者が単調増加してきた。正確には、「相手は汝」とのプロトコル情報が出た状態で後続の情報処理を進めることを前提とした状態数で定義される「性愛時空」が、「社会時空」に浸潤され縮みました。
だから2012年来の性愛本で一貫して「社会に適応し過ぎると性愛が劣化する」という命題を語ります。見掛けが性行為を含んでも「相手は汝」という体験を含まない行為は「性愛時空」を構成しない。損得ベースの「社会時空」が贈与ベースの「性愛時空」を侵食して来た形です。
さて、宮台さんは、
要所要所で、「汝」「ソレ」という言葉が多用されていますが、
これはユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーの思想です。
彼は、人間の世界との関わり方を、
「我ーソレ」
「我ー汝」
の2つに分けました。
「我ーソレ」は、
対象を機能や役割として扱う態度です。
便利かどうか。
役に立つかどうか。
使えるかどうか。
ここでは相手は、
交換可能で、評価可能な存在になります。
まさに、「社会時空」的ですね。
もう一つは、
「我-汝」の関係。
これは、
相手を唯一無二の存在として出会う態度です。
測れない。
代えられない。
定義しきれない。
ブーバーは、
真の関係は「汝」として出会うときにのみ生じる、
と述べました。
これは「性愛時空」と重なります。
では、この両者は、何が違いを生むのか?
ここからが重要な部分です。
宮台さんは、
それを「脳内プロトコル」という言葉で説明します。
相手から
「私は汝です」
という信号が送られてくるわけではない。
むしろ、
こちらの内部で、
「相手は汝である」という情報処理が
先に立ち上がる。
その〝最初のプロトコル〟が、
後続する情報処理の連鎖を決める、というのです。
つまり、
相手がどう振る舞ったか、よりも先に、
こちらの内部で
どういうモードが起動しているかが、
世界の見え方を決める。
ここが、決定的に重要です。
宮台さんの言う
「社会時空」と「性愛時空」は、
外部の環境の違いというよりも、
内部で起動している
〝情報処理のプロトコル〟の違いなのです。
中脳が優位に立てば、
「相手はソレ(it)」という処理が走る。
置換可能。
機能的。
評価可能。
一方で、
大脳的な回路が起動すれば、
「相手は汝(you)」という処理が走る。
置換不能。
唯一的。
命をかけ得る存在。
この違いが、
社会時空と性愛時空を分けている。
ここでまた、
疲弊と回復の話を、再定義してみましょう。
疲弊とは何か。
それは、
「相手はソレ」というプロトコルが
自動化され、固定化されること。
そして回復とは、
「相手は汝」というプロトコルが
再び起動すること。
つまり、
「恋人がいたら、性愛時空」
みたいな話ではないということです。
宮台さんはこう言います。
〝汝として体験する能力〟がなければ、
どれだけ性的関係を持っても、
それは性愛時空を構成しない。
これは、非常にラディカルです。
つまり、
外形的な行為ではなく、
内部の情報処理モードが
時空を決める。
ここで、前半の「前意識クラウド」の話とも
つながります。
前意識クラウドがどのように収縮するかは、
無意識の磁場だけでなく、
起動しているプロトコルにも依存する。
「相手は汝」という情報が
先に立つかどうか。
それが、分布の形を変える。
だからこそ、
性愛時空が縮んだ、というのは、
単に恋愛が減った、みたいな話ではありません。
そうではなく、
「汝として体験する能力」が
社会時空の損得ロジックによって
侵食された、という意味です。
ここまで理解できると、
先ほど述べた
「損得のロジックの中で生きながらも、
性愛時空を保持し続けること」
という一文が、
よりクリアになるはずです。
それはつまり、
損得の世界にいながらも、
「相手は汝」というプロトコルを
失わないこと。
これが、回復の本体です。
ここまでで、
だいぶ「社会時空」と「性愛時空」について深まったのですが、
ただ、僕が最初に投げた問いの答えは、
この段階ではまだ十分には得られていません。
僕が本当に知りたかったのは、
「社会時空」と「性愛時空」が
構造として直和(独立)だとしても、
人生の時間の中で、
それらは本当に"混ざらない"のか?
という点でした。
実際、宮台さん自身が、
社会での経験や傷つきを経て、
性愛時空の重要性へと到達した、と語っている。
それは、つまり、
社会時空で起きた出来事が、
ある瞬間、
性愛時空的な〝意味の問い〟へと
転換したということではないのか。
だから僕は、
直和という構造を否定したいのではなく、
その直和が
時間の中でどう生きられるのか、
そこを、宮台さんとの対話を通じて、深めたかったのです。
ここで、宮台さんの返答から、
僕が受け取ったポイントを整理します。
宮台さんの言う「直和」とは、
ただ「二つの領域が混ざらない」という話ではなく、
そもそも
「有意味な情報」が違う、
という話でした。
社会時空で有意味な情報は、
性愛時空では無意味になる。
性愛時空で有意味な情報は、
社会時空では無意味になる。
つまり、
同じ出来事が目の前で起きていたとしても、
どの情報を拾い、
どの情報を捨てるかが、
最初から違う。
この「数え方の違い」が、直和の正体です。
ここまで来ると、
僕が最初に抱いていた
「混ざる/混ざらない」
という問いは、少し形を変えます。
領域が混ざるかどうか、というより、
人生の時間の中で、
「どちらのプロトコルが起動するか」
が揺れるのではないか。
・・・というのも、
もしプロトコルの切り替えが、
単なる「可逆なスイッチ」だとしたら、
社会での挫折や傷つきが、
性愛時空への到達に〝厚み〟を与える、という
(体験に基づく)事実を
うまく説明できないように感じたのです。
社会時空での通過経験そのものが、
後に「汝」として体験する能力を
生成してしまうことがある。
この「不可逆性」を、
理論の中で位置付けられないだろうか?
そう考えた僕は、
宮台さんに、次の問いを投げてみました。
新田:
宮台さんへ
ご丁寧なご説明、ありがとうございます。
直和が情報処理プロトコルの差異に基づく状態数の定義の違いである、という整理は非常に明晰でした。
これが、「行為ではなく体験」と宮台さんが仰る根源となる原理であり、
同じ出来事だとしても、どちらのプロトコルが立ち上がるかによって体験は変わるし、
「汝」プロトコルが立ち上がれば、過去の経験すらも再符号化される、という理解も可能だと感じました。
その上で、もう一歩だけ踏み込みたい問いがあります。
それは、再符号化では吸収しきれない「不可逆性」が、体験の内部に存在するのではないか、という点です。
これまで多くの人を見てきて感じるのは、我/それとして人を扱った経験、そこから生じた喪失や痛み、その履歴そのものが、後に我/汝へ至る契機になった、という例が非常に多いことです。
これは、結果だけを見れば、プロトコルが切り替わったことで、時空が切り替わり、世界の捉え方が変わった、ということになります(それ自体は、正しい)。
ただ、ここで問いを立てたいのは、「汝」は単なるプロトコルの切替ではなく、我/それを通過した履歴を内包した構造として立ち上がるのではないか、という点です。
ここで提案したいのが、プロトコルを「スイッチ(可逆な情報処理の切替)」としてだけでなく、「履歴の圧縮として生成された内部状態」としても捉える軸です。
たとえば物理学で言うヒステリシスのように、同じ〝現在状態〟に見えても、そこへ至った経路が違えば内部状態は異なる、そうした「不可逆性」が、体験の意味変換にも含まれているのではないか。
(フォーカスしているポイントは、過去が「どう語り直されるか」ではなく、過去の通過が「情報処理の初期条件(内部状態)」をどう変形させるか、にあります。)
再符号化は「意味の書き換え」ですが、ヒステリシスは「意味を書き換える主体そのものの変形」であり、同じ「汝」が立ち上がっても、その質(厚み)は経路によって変わる。この点を、理論上どう位置づけられるか?を考えていました。
この場合、社会時空での経験は単なる再解釈の対象ではなく、性愛時空を成立させる条件(プロトコルそのもの)を生成する契機となりうる。
構造としての直和を維持しつつも、生成がプロトコル自体を形成する可能性について、宮台さんはどのようにお考えでしょうか。
僕はStory Writingを専門としているため、意味がどのように再定義されるか以上に、「意味がどのような通過の厚みを伴って立ち上がるか(意味変換における経路依存性)」に、強い関心を抱いています。
難しい理系用語を色々使っていますが、
僕が言いたかったことはこうです。
人間は、
構造の中に〝固定的に配置される存在〟ではないのではないか。
通過する。
傷つく。
失う。
後悔する。
そして、その通過そのものが、
次のプロトコルを生むことがある。
僕が焦点としたかったのは、
「再符号化」と「不可逆性」の違いです。
再符号化とは、
過去の意味が更新されること。
しかし不可逆性とは、
その過去を通過したことで、
もはや以前の内部状態には戻れない、ということ。
もし、プロトコルが単なる〝スイッチ〟であれば、
「我/ソレ」から「我/汝」へと
切り替わるだけの話になります。
しかし、
「我/ソレ」の痛みを通過したからこそ、
初めて「我/汝」の厚みが立ち上がる、
という事態があるのではないか。
(宮台さんの人生が、まさにそうだったように。)
だとすれば、
性愛時空は、社会時空とは独立しているだけではなく、
社会時空を通過することで、その条件が生成される。
このとき、
直和は崩れていない。
しかし、
時間は一方向に流れている。
ここに、
構造と生成の緊張があります。
この緊張を表現するために、
物理学の「ヒステリシス」という言葉を使っています。
一見、同じ現在状態に見えても、
そこへ至った「経路」が違えば、
内部状態は違う。
同じ「汝」が立ち上がっているように見えても、
そこに至るまでの通過の履歴が違えば、
その「汝」は別物である。
この〝厚み〟を、
理論に組み込めないだろうか。
そう考えたわけです。
そして、僕は、ダメ押しで、
さらに追加で、こう投げてみました。
新田:
それから、もう1つ、
僕の世界の捉え方のコアとしているものに、「経路積分」があります。
量子力学の経路積分では、ある状態は単一の経路の結果ではなく、可能であったすべての経路の総和として与えられます。もちろんこれは物理的厳密性を主張するものではなく、あくまで発想の比喩に過ぎません。
ただ、「汝」の成立も、経路積分的だと考えられないか?と思いました。
それは、実際に歩んだ履歴だけでなく、選ばれなかった経路、あの時こうしていたら、という反実仮想をも含めた意味の干渉の中で立ち上がるのではないか、ということです。
失われた可能性や、選ばなかった未来(もし、あの時こうしていたら、という可能世界)をも全て引き受けたとき、はじめて「汝」が成立するのだとすれば、プロトコルは履歴依存であるだけでなく、同時に、可能性依存的でもある。
その場合、体験の状態数は「実際に起きたこと」だけでなく、「起こり得たこと」との関係の中で定義されることになる。
直和という構造を維持しつつも、その分割は、履歴と可能性を内包した生成過程の中で立ち上がるものとして再理解できるのではないか、と感じました。
この点についても、もしお考えがあれば伺ってみたいと思いました。
ここで少し、
僕が持ち出した「経路積分」という比喩について
補足させてください。
量子力学の経路積分では、
ある粒子が「AからBへ移動する」とき、
その経路は一本に決まっているのではなく、
可能であったすべての経路の"総和"として
その状態が与えられる、と考えます。
もちろん、
これは物理学の厳密な話であり、
そのまま人間の体験に当てはめることはできません。
しかし、
発想の比喩として、とても重要だと感じています。
人間の体験も、
実際に歩んだ履歴だけで構成されているのではなく、
選ばれなかった可能性との関係の中で、
現在の意味が立ち上がっているのではないか。
もし、今、
「汝」として見ることができたとしても、
過去に「ソレ」として見てしまった人がいて、
「あの時、こうしていれば・・・」
「もっと早く気づいてたら・・・」
といった、
〝失われてしまった可能性〟
〝選ばなかった未来〟
〝取り返しのつかない決断〟
は誰しもに必ずあるはずです。
でも、それも含めて、
それがあったからこその〝今〟なのではないか。
宮台さんもそうです。
たくさんの人を傷つけてしまった過去があり、
自身も傷ついて、自らの命を断とうとしたことすらある。
でも、その時に、ヒルギの森に行って、
〝覚醒〟する体験をした。
この体験を支えているのは、
それまで出会った全ての人との、
全ての体験だったのではないか。
愛せなかったこと。
愛されていたのに気づけなかったこと。
逃げたこと。
傷つけたこと。
後悔したこと。
その全部が、後になって、
「汝」として誰かを見るための
土壌になったのではないか。
もしそうだとすれば、
「汝」は、単なる切り替えではない。
それは、
通過してきた無数の経路が、
静かに重なり合った末に立ち上がる、
ひとつの〝今、ここ〟なのではないか。
僕が言いたかったのは、まさにそこでした。
僕は、この問いを投げながら、
宮台さんがこれまで出会った多くの人たちに
感謝している自分がいました。
その全てがあるから、今の宮台真司がいて、
そして、〝ゆにわ〟と出会い、
今、こうして一緒に活動をさせてもらっている。
こんなに喜ばしいことはないなと。
そんなことを感じながら、
宮台さんに投げかけてみました。
この問いに対して、
宮台さんは、
僕が想像していたよりも、ずっと深いところから
応じてくれました。
宮台:
新田さん、ありがとうございます。リプライの文書ができましたので、お送りいたします。
「子供の涅槃(無我)」から「大人の娑婆(我)」を経て「再帰的な子供の涅槃」へ
大脳には、セロトニンやオキシトシンに媒介された感情的体験で価値合理性を司るA面と、情動や感情の言語に媒介されたチェックで目的合理性を司るB面があり、「ホームベースの愛や絆の体験(A)」に向けた「バトルフィールドの戦略的な行為(B)」を可能にしてきました。
B面の目的合理性が専ら「不安回避」(ドーパミン過程)に使われ、目的合理性が元々奉仕したA面の価値合理性(オキシトシン過程)を失う状態が、ウェーバーの「没人格化」。安全・便利・快適に向けた強化学習が際限なく進んでも、幸せに満ちた状態から見放された状態です。
改めて確認しておくと、脳科学の最先端である「予測誤差理論」やそれを含む「予測符号化理論」をあえて持ち出すのは、演算処理の手順を明確化して汎用AI(AGI)や他の動物との比較可能性を確保し、ホモ属(ヒト属)としての固有な精神過程を理解するためのものです。
「アッパー系=ドーパミン系=中脳系」のコカインや覚醒剤やメチルフェニデートと、「エモーション系=セロトニン系=大脳系」のLSDやシロシピンを比べると、前者にはある身体的依存性が後者にはなく、実際LSDは70年代初頭まで、シロシピンは90年代末まで合法でした。
ドーパミン系薬物(もっともっと)は、傍若無人な全能感や極度の没入力を生み、「時間を忘れる」。セロトニン系薬物(幸せだなー)は、淡い風船に包まれてパステル色の世界に浮遊、「過去・現在・未来が同時出現する」。さて、前者と違い、後者は世界観を不可逆に変えます。
後者は中毒症状とは無関係に時間的統覚喪失や譫妄やバッドトリップが生じるから、スキューバダイビング同様、仲間のサポートが必要で、当初はヒッピーなど共同体主義者に拡がります。LSDの禁止は、「1人は危険」もありますが、本質は「世界観の不可逆な変更」です。
見田宗介「気流の鳴る音」1977年は、メキシコでのLSD体験を「世界観の不可逆な変更」として正直に記し、帰日してからの彼は新たに真木悠介の筆名を使い始めます。筆名の背景は色々取り沙汰されますが無意味で、「世界観の不可逆な変更」を前提とした書物の、筆名です。
シーロ・ゲーラ監督「彷徨える河」2014年はLSDに似た体験を与えるアマゾン先住民のアヤワスカ体験を映像で描きます。第二の主人公で帝国主義的侵略の手先エヴァンは、これを体験したことで「世界観の不可逆な変更」が生じ、先住民の構えで近代を生き始めるのでした。
僕の場合、壁の画鋲やテープが花々や星々になり(端的な幸い)、規範意識を伴う戻れなさの懸念と共に恐ろしいバッドトリップが始まると、手が骸骨、換気扇が巨大な虫になりました(端的な不幸)。その体験で自分の視覚が言語範疇で構造化されているのを思い知ります。
ドラッグ体験から中脳過程と大脳過程の違いが判ります。また1度のLSD体験で大脳過程の「幸いへの開かれ」(A面)と「言語的目的合理への閉ざされ」(B面)の両面を把めます。なお大脳過程は中脳にフィードバックされるので、「幸い」も「快」ですが、「戦略貫徹」も「快」です。
これらのフィードバックは各々、速攻的な「快」追求と「不快」回避を我慢し続けた末の遅効的な「愛や絆の幸い」という、「迂回した快」を可能にし、同じく速攻的な「快」追求と「不快」回避を我慢し続けた末の遅効的な「戦略的行為の貫徹」という、「迂回した快」を可能にします。
「幸いの獲得」も「戦略の貫徹」も大脳経由で中脳の快不快を駆動する「中脳的快不快の大脳迂回過程」として同型で、前期フロイト局在論で言うと、中脳過程は無意識の快不快の磁場を形成、大脳過程は磁場に送り込まれて快不快の値を帯びる文群(前意識と意識)を生成します。
ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」に貴重な示唆があります。稀有な感情能力を持つ知的障害の主人公は幸せ一杯でしたが、外科手術で知的能力を得るにつれ、反比例して感情能力を失い不幸になります。むろん子供が(近代の)大人に「劣化」することの隠喩です。
でも主人公は、「幸せ一杯だった頃の記憶があること」を前提に、再び知的能力を失って幸せ一杯へと回帰します。これも一度「劣化」した大人が再帰的に子供の如く生きられれば幸せ一杯に戻るだろうことの隠喩です。読者が涙するのはこの隠喩を自らに適用するからです。
「寝ても覚めても」の愛に生きて強い嫉妬にも駆られた十代末の僕が、失恋を取り返す為にナンパを反復、この子もあの子もダメ...となるうち、ナンパ上達に反比例して愛や嫉妬を感じなくなり、それを地獄と呪った末、1人の死を代価に感情を回復したのを思い出します。
愚かにもこうした「失恋の取り返し」は言語野&前頭前野的な目的合理性の追求で、相手を手段視します。更に年に50人という過剰流動性で、どの相手も型に見えて型に応じたアプローチに熟達しましたが、「型にしか見えない相手の為に死ぬ」など夢のまた夢になります。
型に過ぎない誰もが、一長一短。だから複数の相手から長所を掠め取り、満足を最大化するようになる。相手の体験になり切る能力は「相手をゲットし、いっとき満足させる性交」に使われ、「誰が相手でも同じ営みをしてるね」と感じた相手も、僕を一夜の慰めに留めます。
そこに不全感を強く感じたのは、「かつてそうじゃなかった」からです。でも、ボタンの掛け違えは、遠い昔の「失恋の取り返し」に遡り、経路依存的な累積の膨大さを思うと、「愛と嫉妬から見放された状態」からの離脱は不可能に思え、やがて「諦め」しかないと思うに到ります。
諦めた自分は愛される価値がないと感じました。だから長い間プレイしてきた相手が命を賭して僕を愛していても気付けませんでした。彼女の自死の衝撃で、「昔の一途な自分は子供だった」と軽侮する自己防衛的な「諦め」をやめ、「かつての子供らしさ」に戻ろうとしました。
格好良さげでも実態は醜い。真剣に愛せるようになり、真剣に愛されていると実感するようになっても、「自分が愛される価値がないことがいつかバレるのだ」との不安癖がやまず、自己防衛に由来する「粉かけグセ」が残り、真剣に愛してくれる相手を傷付け続けました。
ベビーサークルで目覚めたら暗い部屋で母が居らず泣き叫んだのが僕の最初の記憶ですが、この分離不安(見放され不安)は毎年転校した小学時代にも「皆が諜し合わせて僕を見放すのでは?」と消えず、恋愛歴でも「大好きなのに、振られる前に振る」営みを反復してしまいます。
「自己防衛の為の戦略的な営み=大人らしさ」から、「全面的に自分を明け渡す幸い=子供らしさ」への帰還は、難しい。別言すれば、「自己防衛」の自己を、他者を包摂する「拡張した自己=自他未分的な自己」に差し戻すのは、難しい。だから「アルジャーノン」に咽(むせ)ぶのです。
でも自分は、たとえ未達(みたつ)に終われど、相手が冷めて一方向になれど、真剣に愛するがゆえの「相手の喜びを自らの喜びとする」という「感情的体験を複写する享楽」を、二度と手放したくありません。真剣に愛する力を失った惨めさを、二度と味わいたくないのです。
「娑婆から涅槃を経て娑婆に帰る」営みが釈尊の往相還相。今回話した「バトルフィールドの戦略的行為」が「ホームベースの愛や絆の幸い体験」を目標にしなくなる頽落状態からの、回復は、龍樹の「涅槃(子供)から娑婆(大人)を経て涅槃(再帰的子供)に帰る」営みに当たります。
僕の恋愛ワークショップでは「クズナンバ師」からの離脱の歩留まりは1割。1割に共通するのは幼少期の「無条件の愛」「無我夢中の遊び」の体験でした。僕が子供の野外実践に執るのは「涅槃から娑婆を経て涅槃に戻る営み」を可能にする端緒の「涅槃」を体験させる為です。
※ここに記した薬物体験は合法アナログ(水酸基・塩基・メチル基などを取り替えたもの)によるものです。
ここで、宮台さんの返答を読みながら、
僕は思いました。
僕が「ヒステリシス」や「経路積分」と言っていたことは、
理論の外にある例外ではなく、
むしろ、
宮台さん自身の人生そのものが、
それを体現していたのではないか、と。
宮台さんは、
「世界観の不可逆な変更」
という言葉を使います。
これは、
単なる再解釈ではありません。
同じ世界を違う意味で見る、という話ではない。
世界そのものの見え方が、
戻れない形で変わる、ということです。
LSD体験の例。
見田宗介(真木悠介)の筆名の話。
「アルジャーノンに花束を」の隠喩。
どれも共通しているのは、
一度通過してしまった者は、
もう以前の世界観には戻れない
ということです。
ここで、
僕の問いは、
一段、別の形で答えられていました。
A面:性愛時空、セロトニン・オキシトシン
B面:社会時空、ドーパミン
この直和は崩れていない。
社会時空と性愛時空は、情報の数え方が違う。
しかし、
どちらのプロトコルが起動するかは、
〝履歴〟に依存する。
そしてその履歴は、
痛みや喪失を含んだ、
不可逆な通過です。
宮台さん自身が、
ナンパ地獄を通過し、
「汝」として見られなくなった自分を呪い、
一人の死を代価に、
再び「汝」として見る能力を回復する。
ここにあるのは、
単なるスイッチの切替ではありません。
人生における、3つの段階。
子供の涅槃。
大人の娑婆。
そして、
再帰的な子供の涅槃。
人は、生まれたばかりの時、まだ社会時空を〝知らない〟。
これが「子供の涅槃」です。
しかし、年齢とともに、
評価。
比較。
競争。
損得。
「どう見られるか」
「どう生き残るか」
「どう失敗しないか」
社会時空のロジックが、
ゆっくりと、しかし確実に
内面を覆っていく。
これが、
「大人の娑婆」。
自己防衛がはじまり、
戦略が洗練され、
言語が鋭くなり、
正しさが増していく。
しかしその裏側で、
何かが、少しずつ失われていく。
無条件に信じる力。
無我夢中で遊ぶ力。
「あなたでなければならない」
と震える力。
「この人を、自分の命をかけてでも守ろう」
と思える力。
それを失ったまま、
社会の中でうまく立ち回ることもできる。
成功することもできる。
評価されることもできる。
しかし、その代償として、
「汝」が消える。
すべてが「ソレ」になり、
やがて、自分自身が「ソレ」となる。
ここで終われば、ただの劣化です。
宮台さんが見ているのは、〝その先〟にあった。
それが、
「再帰的な子供」。
これは、子供に〝戻る〟ことではありません。
一度、社会時空を通過した上で、
それでもなお、愛を選ぶ。
だから、不可逆なんです。
この後、僕は宮台さんと、こんなやりとりをしました。
新田:
宮台さんへ
お忙しい中、僕の問いかけに対して
お返事いただき、ありがとうございます。
A面/B面という整理が、
単なる脳科学モデルではなく、
人生の通過と重ねて語られていて、
とても深く響きました。
特に、
「B面がA面に奉仕する」という構造が逆転したとき、
人は戦略的には洗練されるけれど、
愛や嫉妬を感じられなくなる
という指摘は、理論というより、
かなり切実な実感に根ざしているのだと感じました。
子供 → 大人 → 再帰的な子供
という三段構造も、
単なる回帰ではなく、
一度B面を通過した上で、
自覚的にA面を主導に戻す、という
〝履歴を含んだ再構成〟だと理解しました。
僕が問いとして出した
ヒステリシスや経路積分の話(仮説)も、
この「再帰」という構造の中で
より明確に位置づけられたように感じています。
『再帰的な子供の涅槃』は、
〝汝は履歴の圧縮である〟
という表現にかなり近いものだと受け取りました。
今回の一連のやり取りは、
理論としても、
また人生の厚みとしても、
非常に資料価値の高い、
貴重な対話になっていると感じています。
宮台さんが
「二人の対話をまとめて宮台真司.comに掲載して欲しい」
と仰ってくださった件につきましては、
今回までの内容を整理して掲載させていただければと思います。
引き続き、
この構造を自分の中でももう少し噛み砕き、
初見の方にも届く形に補足説明を加えた形で作ってみます。
宮台:
新田さんの御感想、とても励みになります。ぼんやりと考えてきたことであれ、新田さんに問われて初めてシュレディンガー的に文が収縮しました。今のタイミングでなければ生成されなかった文だと感じます。
新田:
そのように言っていただけて、光栄です。
以前「量子エンタングルメントが起こった」と表現してくださった通り、
今回の一連のやり取りは、
互いの問いが触れ合う中で
意味が立ち上がっていく〝体験〟だったと感じています。
セミナーや書籍のような完成形ももちろん尊いですが、
まだ確定していない思考が、
対話の中で収束していくその瞬間こそ、
唯一無二の価値を持つのだと、あらためて実感しました。
今回の対話を掲載することは、
内容そのもの以上に、
「意味が生成されるとはどういうことか」を
読者の方に体感していただく機会になるのではないかと思います。
このような時間を共有させていただけたことに、
感謝しています。
この対話は、
1人の社会学者と、
1人のストーリーライターが、
それぞれの履歴を抱えながら、
互いの問いに触れたときに起きた、
〝生成の記録〟でした。
問いが投げられ、
それに応じて、
まだ分布状態にあった思考が、
ゆっくりと収束していく。
シュレディンガー的に、
文が立ち上がる。
宮台さんは、
「今のタイミングでなければ生成されなかった文」
と書いてくださいました。
その言葉を読みながら、
僕は改めて感じました。
意味とは、
誰か一人の内部に、
完成された形で眠っているものではない。
意味は、
関係の中で、
時を得て、
ようやく立ち上がる。
そしてそれは、決して可逆ではない。
そして、
その不可逆な通過を、
言葉として残すこと。
それが、
思想であり、
ストーリーであり、
対話なのだと思います。
僕は、宮台さんのこれまでの人生に、
静かな敬意を抱きました。
傷つけ、
傷つき、
崩れ、
それでもなお、
「再帰的な子供」を選び続けてきたことに。
そして同時に、
その履歴があったからこそ、
今、このタイミングで、
こうして出会えたこと。
〝ゆにわ〟という特別な磁場に触れて、
新たな意味が生成されている
その瞬間に立ち会わせてもらえたことに
感謝の気持ちが沸いてきました。
人生は、
子供の涅槃に始まり、
娑婆を通過し、
そして再帰的な子供へと至る旅。
それは、
宮台さんだけの物語ではなく、
きっと、
この文章を読んでいるあなた自身の物語でもあります。
この対話を、全て記録として残すことで、
この文章のどこかが、あなた自身の履歴と干渉し、
小さな揺らぎを生んだのなら、
それはすでに、
あなたの中で、新たな収縮が起こり、
新しい意味が生成されようとしている証なのかもしれません。
意味が壊れた社会において、
それでもなお、「汝」として見ること。
愛を選び続けること。
そこからしか、
本当の回復は始まらない。
この対話が、
あなたの中にある「再帰的な子供」に
静かに触れることを、
心から願っています。