書評・恋愛論 2026

村上春樹書評と宮台真司の恋愛論

新田祐士

こんにちは。
宮台真司.comの編集をしています、新田です。

今回は、
宮台さんの新しい資料を公開したいと思います。

その前に、ちょっと前置きを・・・!

突然ですが、

〝あなたは、自分に自信を持っていますか??〟

こう聞かれたとき、

胸を張って「あります」と答えられる人は、

あまり多くないかもしれません。

少なくとも、僕は、

(特に昔は)あまり自信のない方でした。

こう言うと、結構意外に思われることが多いんです。

僕は、京都大学を出て、

学生時代に起業して、

事業もそれなりに大きくなりました。

なので、周囲からは、

「成功しているね」

と言われることも多いです。

自分で立てた目標も、

振り返れば、かなりの数を達成してきたと思います。

でも、だからと言って、

「自分に、自信はあるか?」

と聞かれると・・・

それはまったく別の話でした。

褒められても、

どこかで受け取れない。

「すごいですね」と言われても、

「そうかな・・・?」

とか思ってしまう。

誰かに認められても、

「本当の自分を知らないだけでは・・・?」

と感じてしまう。

外側では、

何かが積み上がっているように見えるけど、

内側では、

それが自分のものになっていない・・・。

そんな感覚が、ずっとありました。

〝この感覚の正体は一体何なのか?〟

〝なぜ、こんな「ズレ」が生じてしまうのか?〟

これは、僕が人生で、ずっと考え続けた問いであり、

様々な経験や出会いを通して、

このズレが起きる構造を

少しずつ理解するようになっていったのですが、

今回は、

まさにこの感覚について、

宮台さんに「恋愛」を通して解説していただいた

非常に面白い資料だなと思いました。

今回、宮台さんからいただいたのは、
村上春樹さんの小説、

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

をめぐる書評です。

ただし、この小説を読んでいなくても、問題ありません。

これは単なる小説の解説ではなく、

「宮台式恋愛論」であり、

「自信」の本質について解説した文章であり、

もっと言えば、

〝人はなぜ、愛されていても、
 愛されていることを受け取れないのか〟

という、多くの人にとって重要な「問い」についての文章です。

ただ、結構難しい用語が多いので、

読むのは大変かもしれません。

なので、読む前に、1つだけ、

本文における重要な概念を説明しておきます。

それが、

「期待水準」と「願望水準」

です。

この2つは、似ているようで、

まったく違います。

まず、「期待水準」とは、

〝現実(世界)は、自分の期待にどれくらい応えてくれそうか〟

という予測です。

たとえば、

誰かを好きになったとします。

何回かデートに行き、

「この人は、自分のことを好きになっているに違いない。」

「告白したら、きっと付き合えるはずだ。」

と期待します。

でも、いざ、告白してみると、

あっさりと振られてしまう。

その時、

「必ず付き合える」

と思っていたのに、その期待が裏切られたわけです。

すると、人は学習します。

「あぁ・・・現実はそんな甘くないんだ。」

「人に期待すると、傷つくんだ。」

「自分が望んでも、返って来るとは限らないんだ。」

・・・と。

これが繰り返されると、

だんだん、「期待水準」は下がっていきます。

これ自体は、悪いことではないし、

むしろ「自然なこと」だと思います。

でも、問題はここからです。

期待水準が下がったとき、

願望水準まで一緒に下がってしまうこと。

これを、宮台さんは問題視しているのです。

では、「願望水準」とは何か?

それは、

〝自分は、本当は何を望む人間なのか〟

ということです。

現実が実際にどう返ってくるか?ではなく、

うまくいくかどうか?でもなく、

報われるかどうか?でもありません。

むしろ、たとえ期待したものが返って来なかったとしても、

〝それでも自分は、何を諦めたくないのか〟

という感覚なのです。

先ほどの例で言えば、

付き合えると信じた相手に振られて、傷ついた。

だけど、

〝それでも、自分は人を本気で愛することを諦めたくない〟

と思えること。

これが、願望水準。

この2つの違いが分かると、

宮台さんが社会を論じる時の〝立ち位置〟について

少し見えてくるものがあります。

・・・と言うのも、時々、

宮台さんのことを「絶望論者」だと思っている方が

いらっしゃいます。

そう感じる方は、宮台さんが、

「どうせ、この社会はもう崩壊するんだ」

「もう取り返しがつかない」

とか、そういうことばかり言っている人、

というイメージを持たれているのかもしれません。

でも僕は、それは違うと思っています。

宮台さんは、

絶望しているというより、

〝よく見えてしまっている人〟

なのだと思うのです。

どうなると社会が壊れるのか。

どこを越えると、
人間関係が戻らなくなるのか。

どの地点を過ぎると、
共同体が共同体として機能しなくなるのか。

その境界線(Horizon)を、かなり正確に見ている。

これは、医学で例えるなら、

病理医であり、救急医のような存在なのかもしれません。

健康な人を見ていても、

病気の構造はわかりません。

壊れたときにしか、

身体の設計は見えないのです。

宮台さんは、

社会の「救急外来」を見ている。

だから、

社会に対して、過度な期待は持たない。

「このままでも何とかなる」

とは言わない。

「正確に見れば、このままでは壊れていく」

と診断しているだけなのだと思います。

しかし、宮台さんはここで終わりません。

確かに、社会はこのまま壊れていくかもしれない。

〝それでも、諦めていないものがある〟

ここが、特に、最近の宮台さんを拝見して、

強く感じる部分です。

社会が応えてくれるとは思っていない。

それでも、

自分は何を諦めたくないのか。

何を失ったら、

自分が自分でなくなってしまうのか。

そこだけは、
手放していないのです。

これはすなわち、

期待水準は低い。

でも、願望水準は低くない。

と言えるでしょう。

特に、

〝現実が思い通りになっているから、自信がある〟

というのは、

本文でいうところの〝自己肯定感〟です。

例えば、

「ビジネスで成功したから自信がある」

「可愛い彼女ができたから自信がある」

みたいな感じ。

これは、宮台さんの言う意味での〝自己信頼〟とは少し違います。

むしろ、

現実が思い通りにならないことを知ってなお、

〝それでも自分は、これを諦めない〟

と思える自己を育てていくこと。

それが、〝自己信頼〟に繋がっていくのです。

その上で、今回、宮台さんからお預かりしている資料は、

今の話を「恋愛論」という文脈で

語られているものです。

今、「期待水準」と「願望水準」の話をしましたが、

じゃあ、

「願望水準が高い人は、必ず良い恋愛ができるのか?」

というと、そうとも限らないのです。

なぜなら、願望水準が高い人は、

中途半端な恋愛では満足できない。

だから、40〜60%の関係ではなく、

100%の相互性を求めてしまう人なんです。

なので、

〝同じく、そう思ってくれる相手〟

がなかなか見つからない。

ただ、

もし、そういう相手に出会ったと思ったとき、

その出会いはただの恋愛ではありません。

〝救済〟に近いのです。

「自分だけではなかった」

「この世界にも、同じ火を持っている人がいた」

「自分の願望は、狂気ではなかった」

そう思えるんです。

そして、ここからが小説の核心部分に関わってくることですが、

もし、自分が〝相手も同じものを求めている〟と信じた相手が、

本当はそうではなかった、

あるいは、そうではなかったように見えたとき、

そのダメージは、計り知れないものとなります。

そんな相手、いないと思っていた。

そんな「不可能」とすら思えるような恋愛を、

この人ならできるかもしれないと、信じられる相手。

その相手が、

「実は違った」

ということが分かった時、

それは、単なる失恋ではありません。

この時、

自分が信じていた世界の構造そのものが

崩壊してしまうのです。

今回扱う小説は、

人は、その人が信じている世界ごと崩壊してしまう様子、

そして、そこから時間をかけて回復していく様子が

描かれているものです。

これは、先日公開した、

僕と宮台さんの対話を通して解説した

社会時空、性愛時空の話とも関係しています。

すなわち、

人は、どんな過程(経路)を通って、

性愛時空に至るのか?

ということ。

また、これは、

最近発売された、

〝Horizon〟

でも詳しく解説しています。

すべて併せて学んでいただくことで、

宮台さんの思想が、より立体的に見えてくるはずです。

それでは、今回公開する資料は3つ。

1つ目は、
宮台さんの
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
にまつわる書評。

2つ目は、
その書評に関する注釈。

3つ目は、

ゆにわで運営している大学受験塾の卒業生に向けて

宮台さんから送られたメッセージです。

さらに、資料の後に、

僕からの追加解説や、補足も、載せておきます。

それでは、どうぞ。

<資料1:阪田晃一氏の書評に触発された宮台の書評>

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

26.05.24 宮台真司

「願望水準」は自己愛(ナルチシズム)が支える。なぜなら「期待水準」は社会についてのイメージだが、「願望水準」は「決してそれを諦めない自分」という自己への執りだからである。期待水準は、期待外れを学習して低くなりがちだが、願望水準は、社会を学習しないから低くならない。

期待水準はルーマンいわく「認知的予期」に関わり、願望水準は「規範的予期」に関わる。かつて、規範的予期に関わる願望水準は「共同体愛」の産物だったのが、複雑な分業編制を音声言語(詩的言語)ならぬ書記言語(散文言語)で支える文明段階(後期定住)になると、願望水準は「自己愛」の産物になる。

期待水準が下がると、ベイズ計算によって期待利得が下がる。すると、低い期待利得に甘んじてしまう自己への、評価が下がる。自己肯定感を下げることが、自己防衛(ホメオスタシス・オブ・ザ・セルフ)になるからである。つまり、自己防衛のために自信を失う(自己肯定感を下げる)のだ。

他方、願望水準は、自己愛ゆえにこそ社会を学習しないから、社会の期待外れによって脅かされない。ゆえに願望水準が高いと、期待水準(社会はどうせこうだ)の変動にすら脅かされない。つまり、高い願望水準が最大の自己防衛になる。高い願望水準を与える自己愛がエマソンの「自己信頼」で、バンデューラの「自己効力感」に当たる。

簡単に言えば、自己肯定感は、他者からの承認に依存する「持続不能な自信」だが、自己信頼=自己効力感は、累積的な試行錯誤や累積的な文芸体験が与える経路依存的な生成物なので、他者からの承認に依存しない「持続可能な自信」になる。アドラーが「褒める親」を否定するのは、「持続不能な自信」を認めないからである。

~~

さて自己効力感を与える高い願望水準を持つ者は、自分と同様に高い願望水準を持つ者を見付けにくい。然るに、恋愛は願望水準の高さに依存する(後述)。ゆえに、現実の恋愛経験には不全感を抱きやすくなる。なぜなら、妥協しない分、妥協的な両想いを拒絶したがるからだ。それが「身持ちの堅さ」として現れもする(後述する登場人物シロ)。

だから、そのままでは高い願望水準を擁護しきれない。ゆえに、ロマン主義が生まれた。ロマンとは「不可能な願望」のことで、ロマン主義とは「不可能な願望でも諦めない」あるいは「不可能な願望だから諦めない」構えだ。ゆえに、必然的に「未達の恋」を擁護する。フランス恋愛文学の出発点たる18世紀末のラクロ『危険な関係』来の強い伝統。

映画『スクールガール・コンプレックス』2013年が描いた「過去にありえた筈の高校生活」が、この王道にのっとって、「未達の恋」を全面的に擁護した。だが、ロマン主義的恋愛の核心である「不可能な願望」&「未達の恋」の擁護には、隠れた社会的条件がある。文芸やミクロであれ現実の世界にロールモデルが見つかることだ。

この隠れた社会的条件が満たされなくなったので、1990年代には「不可能な願望」&「未達の恋」を擁護する営みが文芸からも現実からも消えていく。それでも90年代半ばまでは、ドラマ「高校教師」のように、①舞台を高校に移し、②あくまで文芸という建て付けて、「不可能な願望」と「未達の恋」を擁護する表現がありえた。

ただし映画『スクールガール・コンプレックス』は大道具の美術を用いた「1980年代の追憶」という建て付けを採用することで、かろうじて2013年まで「不可能な願望」&「未達の恋」を擁護できたということだ。ただのファンタジーとして描くのをやめ、「過去に現実にあったこと」として描くことが、ロマン主義的な愛を擁護するための最後の抵抗だった。

~~

ところが同じ頃から、文芸(文学や映画)がもう一つの重大な問題を描き始めた。「不可能な願望」を追及する者が、同じく「不可能な願望」を追及する相手を見付けて——見付けたと思って——恋に落ちる場合、実は相手が「不可能な願望」を追及する者ではなかった——と思えた——という裏切りを体験することで、廃人化することだ。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくる~』2015年。「不可能な願望」の追及者が、絶滅危惧種の同士を見付けて深い絆を結んだ後、「裏切り」で廃人化し、二十年をかけて再び「不可能な願望」を追及する同士(可能的な恋愛相手)を見付け、裏切り前提の「ロマン主義的恋愛の両想い」に挑戦しようと腹を決めた所で、話が終わる。

主人公は男だが、2000年の短編「蜂蜜パイ」と同じで、他人たちから(女からも男からも)愛されてきた・愛されているにも拘わらず、自己卑下(自己信頼の低さ)ゆえ、愛されてきたことにも愛されていることにも気付けず、それが主人公にとっての青天の霹靂の如き「裏切り」を自ら準備することになったという話になっている。

主人公が抱える問題は、他者たちからの承認が全く意味を持たない自信のなさだから、自己肯定感(持続不能な自信)ではなく、自己効力感=自己信頼(持続可能な自信)に関わる。彼は他者からどんなに承認されても消えない「平凡」に苦しむ。承認で舞い上がる存在も「平凡」だ。承認に無関連な「才能」が、「平凡」に対置される。

それが第二章までに明かされると僕は落ちて先に進めなくなった。6つの小学校に通った僕は、2つ目からは演技者だったし、早生まれで虚弱で体も小さく弱虫だったのが、小4から突然成長してオール5やリレー選手になったので、どんなに褒められても「それは自分じゃない」「自分は平凡以下」との意識が抜けなかった。

自叙伝『聖と俗』に書いたが、どんなに褒められても「それは自分じゃない」と感じる意識が、女にどんなに愛されても「そんな筈はない」「それは自分じゃない」「本当の自分がバレたら終了」という意識に継承され、愛されていることが判らない男になっていた。それが97年の東大生女子の自殺という悲劇を招いてしまったのだ。

幾つかの思いが地層のように積み重なった上で、褶曲して、山になったり、谷になったり、断崖になったりして、元の積み重なりの構造を見えなくする。思いの地層を褶曲させた「力」は、愛されていても判らない僕のクズさに由来していて、僕を愛する女たちから見た僕の何がどだか判らなさが、彼女たちを苦しめてきた。

~~

認識は変えられても、歴史は変えられない。歴史は変えられないが、認識は変えられる。だが、変えられない歴史を踏まえることなく認識を変えても、必ず歴史によって裏切られる。村上春樹の全小説を貫徹するモチーフだが『色彩を持たない多崎つくる』に最も色濃く貫徹する。。40年読み続けているから、間違いない。

僕のクズさによる思い(認識)の地層の褶曲が女たちを苦しめ、女たちの思い(認識)の地層を褶曲させてきたが、どんなに悔やんでも褶曲の歴史は変えられない。変えられるのは、褶曲の歴史を踏まえた、自分がどうにかできるかもしれない認識だけ。良かれ悪しかれその認識もまた、それを踏まえた営みにて歴史を作ろう。

多崎つくるが体験する「裏切り」は、他者による裏切りに加えて、自分による裏切りを含む。自分にはできる筈だと自認していた営みが実は自分には全くできないことが、自分による裏切りだ。自分は解像度が高いと思っていたのに誰よりも解像度が低い事実に直面して、自分による裏切りを体験してきた僕には凄く刺さる。

裏切りの衝撃は、期待水準と違い、願望水準が高い(自己愛が強い)ほど人を廃人化させる。多崎つくるは裏切りによって廃人化し、いつ死んでも不思議がなかった長い希死念慮を経て、何も願望せず―「色を持たない」というタイトルの「平凡」とは違うもう一つの意味——「何があってもそんなものだ」と生きるようになった。

廃人化を生き延びて以降、それゆえの主人公のクールな構えが、中の上という容姿と、譲らないスタイルと相俟って、主人公に性愛の相手を途切れさせたことはない。「だからお前は他の男たちより幸せだろう」と思われても、自分には何も起こっていないという「平凡」の感覚が消えない。これまた僕に余りに重なっている。

そこには褶曲の歴史を踏まえた自然な認識がある。だが多崎は「褶曲の歴史(の取り返しのつかなさ)に鑑みればその認識しかもはやありえない」という具合に、悲劇の歴史に紐付けた正当化で「その認識」に閉ざされている。つまり「歴史ゆえの仕方なさ」に自らの認識を「他責化」し、別様の認識可能性を全て諦めて生きている。

彼の自然な認識の自認された経路はこう。かつての僕にも当て嵌まる。

裏切られ体験の否定性
→否定的自己像
→承認欲求ゆえの分離不安
→シニカルな挫折先取
→現実の恋愛挫折
→否定的自己像
→以下同様

先出ししておくと、長い話の終盤ではこう変わる。

初めからの否定的自己像
→他者からの愛への鈍感さ
→致命的「誤」選択
→究極の悲劇的歴史
→否定的自己像
→以下同様

最もクリティカル(分岐点的)な項は、「他者からの愛への鈍感さ」だ。僕がハンサム? 僕が非凡? やれやれ勘違いだ。そもそも僕はさして愛される筈がないのだ。こうした謙虚さにも見える認識=自己卑下(自己信頼の低さ)が、信じがたい悲劇の歴史をもたらす。だが謙虚さに見えるのが徒になり、多崎には悲劇の大元が見えないままだ。

多崎の「他者からの愛への鈍感さ」は実際は「そこまで愛される筈がない」との回避的な否認で、多崎の自己防衛機制の核を成す。なのに自らの認識(否定的自己像・によるシルカルな挫折先取)を、自らはどうでもできない歴史へと20年近くも他責化し続けた。だから性愛にも「好意と体関係」以上を望まず、結婚も諦めてきた。

それゆえの多崎のクールな構えが、中の上という容姿と、譲らないスタイルと相俟って、多崎に性愛の相手を途切れさせたことはなく、周囲からは「他の男たちより幸せだよね」と思われてきた(先に話した)。だが、周囲は自分の平凡さを見抜いてくれない「只のいい人」に過ぎないから、どうでもよく、多崎は「凪ぎ」から出られない。

~~

そこに舞台回しの役として年長の沙羅が現れ、多崎の回避(どうせ○○は)を見抜く。多崎が解明を放棄していた過去の悲劇的歴史の「再検証」のための巡礼を促し、最終盤で、「否定的自己像・による他者からの愛への鈍感さ・による悲劇」という決定的要因——沙羅いわく「あなたには何か決定的な欠落がある——に気付かせる。

沙羅が「年長」の女として設定されるのは、彼女が経験的に——自らの体験かそんな他者を目撃したかで——「否定的自己像・による他者からの愛への鈍感さ・による悲劇」という摂理を知っていること、知っていても不思議ではないことを読者に想像させるためだ(僕もよく似た経緯で年長の女に「治療」を施された経験がある)。

だから彼女は身を以て多崎の「恋人未満」となって、「あなたには決定的欠落がある」と指摘した上で、彼が縁を切って15年関わろうとしなかったかつて絆で結ばれた仲間を、巡礼して訪ねれば「あなたの決定的欠落」が判るだろうと予言し、実際その通りになった。

かつての仲間たちを探す巡礼の旅——とりわけフィンランド行——で、多崎は、①かつて仲間女クロが多崎を命掛けで愛していた(のに気付かなかった)こと、②多崎を命掛けで愛する仲間女クロ(七人の小人)・に嫉妬した仲間女シロ(白雪姫)が、多崎を破滅させたのかもしれないこと、を知るに到る。

ここには、高校生の絆集団に於ける「シロが思いをかけるクロ・が思いを寄せる多崎・が何も気付かず応えない」という、同じく高校を舞台にした先ほどの映画「スクールガール・コンプレックス」と完全に相似形のモチーフがある。なお「色彩を持たない多崎つくる」のほうが2年ほど遅いので、後者が前者に影響を与えた可能性もある。

フィンランドで夫と娘の3人家族を営む、かつて多崎を命掛けで愛したクロは、これらを伝えた後、多崎に、私(クロ)に会いに行けとあなたの背中を押した沙羅こそ、あなたの真の恋——自分が逃したもの——のラストチャンスかもしれないと多崎の背中を押し、多崎を「霧の中から覚醒させて」沙羅の元に帰日させる。

クロは二人目の舞台回しとして多崎を動かす。
(1)多崎を暴力的に破滅させたシロが自らも暴力的に破滅したことを告げた。
(2)沙羅と夫(?)との仲睦まじい姿を語る多崎に決して諦めないように告げた。
(3)父と娘を外出させた自宅の居間で帰り際の多崎と無限に長いハグをした。

(3)は「多崎への愛」が「今の夫への愛」より強かったこと——諦めモードで「恋愛結婚」したこと——を示唆する。しかるに、作品は「もはや後戻りできない(取り返せない)」という台詞(アカ&アオ)を繰り返す。ゆえに(2)は「あなたと愛の性交をした沙羅なら、取り返しがつく。進め」という、自らのリグレット込みの背中押してある。

~~

小説の形式面では、(1)「暴力を用いた者は暴力に沈む」は、先の「AがBを思い、そのBがCを思い、そのCは…」という連鎖モチーフと換喩的な関係にあり、それが神話的イメージを惹起している。他にも神話的イメージが数多あるものの、この「連鎖モチーフ」が作品全体のメイントーンを形づくっている。

2000年の短編「蜂蜜パイ」は阪神淡路大震災を、今回の「色彩を持たない多崎つくる」は地下鉄サリン事件を、背景にフィーチャしている。共に、終末の訪れで「取り返しがつかなくなる」前に、進め」という今度は隠喩的な同形性があり、その隠喩的な同形性に於いて、2段落前に示した(2)と換喩的に同形でもある。

公開中の米国映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』に於ける「共同幻想(皆のために死ねる)はどうでもいいから、対幻想(あなたのために死ねる)だけで生きろ」という、昨今の社会的雰囲気による「終末感のリアル化」を前提としたビートルズ的「愛こそすべて」を、「蜂蜜パイ」と「色彩を持たない多崎つくる」が先取りしている。

まとめる。「色彩を持たない多崎つくる」が刺さるのは、(a)否定的自己像(愛される筈がない)が壊滅的悲劇をもたらし得るという〈事実〉的指摘と、(b)「認識を歴史に他責化するな」という〈規範〉的物言い(台詞に出て来る)とが、相俟つ形で、周囲から謙遜に見える(a)ゆえの、「愛されていることへの鈍感さ」を、激しく告発するからだ。

<資料2:資料1の注釈>

注釈:阪田晃一氏の書評に触発された村上春樹書評

計量を含めた僕の観測では、①日本に限らず若い世代の恋愛を含む性愛への願望水準が低すぎ、②そこから様々な問題が生じていること。願望水準が低い「原因」は、「80年代新住民化=ソーシャル・キャピタル(人間関係資本)空洞化」ですが、新住民化云々についてはスキップし、後ほど「人間関係資本の空洞化が何をもたらすがゆえに願望水準を下げるのか」について詳しく話すことにします。

問題は「そこから生じる様々な問題」。一括して「若い世代が性愛の『実りの希望』より『失望の不安』が勝る問題」。脳科学でアップデートします。各所で話した「ウヨブタ御用達の、希望ならぬ不安に偏る性教育」も「クソフェミ御用達の、加害被害図式に偏る人権主義的な性教育」も原因とはいえ、脳科学的には願望水準が高ければ「失望の不安」(低期待水準)は問題になりません。

期待水準は予測誤差理論でいう予測値。「或る行動で、現実に何を予測でき、どんな利得を期待可能か」という期待利得のベイズ計算を伴う。予測を現実が下回れば(=失望すれば)予測値は下方修正される。他方、願望水準は、期待水準から独立の「自分が本当は何をしたい人間か」という自己像self。現実離れした期待水準は「愚かさ」ですが、現実離れした願望水準は「尊い価値貫徹」です。

芸術史では「不可能な願望」を「ロマン」、「数多の挫折(願望外れ)に抗して不可能な願望に固執する価値貫徹」を「ロマン主義」と呼びます。ロマン主義は「未達の擁護」を含みます。男女20人ずつの学級で自分が100%で好きな相手が自分を100%で好きな確率は雑な計算で20分の1。だから「真の恋愛」の実現は「不可能な願望」。それでも諦めないのが「ロマンチック・ラブ」です。

今で言う「ロマンチック=甘々」でなく「不可能でも諦めない愛」。大人のソレを描く映画・ドラマが1993年に終了、(過去の)学校に舞台を移して高校生のソレを(回顧的に)描くものが2013年まで続く話をしましたが、それが意味するのは、大人が、次に高校生が、100%の恋愛を「未達」ゆえに諦め、40-60%の恋愛未満(セフレや愛人)的「達成」にシフトしたという事実です。

「不可能でも諦めない愛」の意味論は18世紀末のラクロ『危険な関係』以来のフランス恋愛文学の伝統の核。この恋愛文学への憧れが「未達でも恋愛しよう」という営みを拡げました。そしてこの「未達の愛」の表現伝統が今話した通り十数年前まで続いた後に消えます。これは「私は不可能な願望を貫徹したい者」という自己像(自意識)の醸成機会の消滅を意味します。

『季刊エス』の中断した連載で記した通り、今も稀に「未達であれ100%の愛」を貫徹したがる高校生や大学生がいますが、殆ど例外なく小学生時代から本・漫画・映画を通じて「不可能な願望を捨てれば自分じゃなくなる」という自己像を醸成した女子です(男子は減多にいない)。学級ではメンヘラ扱いされがちですが、承認嗜癖の地雷系やぴえん系とは全く違う種族です。

自己像selfなる鍵言葉が出て来ればエマソンの自己信頼self relianceに触れずには済みません。自己信頼はバンデューラが90年代までに示した(短期的)自己肯定感ならぬ(長期的)自己効力感と同一。自己肯定感は承認に依存しても、自己効力感(自己信頼)は文芸体験の累積やそれと並行する試行錯誤の累積で醸成されるので承認に依存しない。ぴえん系≠ロマン系。

ある面で、自己肯定感(すぐ消える自信)と自己信頼(消えにくい自信)は等価に機能します。合わせて自信と呼び、予測誤差理論に戻ると、予測値を体験値(現実)が下回った時、自信がないと直ちに予測値を下げ、期待利得の低下で力を失う。予測誤差理論では「体験値への過剰敏感」と言い、鬱状態の定義とします(逆に「体験値への過剰鈍感」を躁状態の定義とします)。

自己肯定感であれ自己信頼であれ、自信は「体験値への過剰敏感」(ヘコみがち)を抑制しますが、自己肯定感は「すぐ消える自信」で持続可能性がありません。アドラーが子を褒める親を「褒められてイキり、貶されてヘコむ」承認嗜癖=承認厨を量産する頓馬だとする理由です。彼がユニークなのは自己信頼の鍵として「共同体感覚」を挙げる点。難しい概念ではないです。

野坂昭如が自らの作詞で歌ったCMソング「♪ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、ニ・ニ・ニーチェかサルトルか、みんな悩んで大きくなった」です。アドラーは「(偉人は)みんな」が鍵だします。すると「共同体感覚の醸成」と「文芸体験の累積」が接続します。「80年代新住民化」での「①試行錯誤の抑制②文芸体験の貧困③共同体感覚の衰滅」の掛算で自己信頼が消えたのです。

自己信頼の醸成で試行錯誤(①)を重視するのがルーマン、文芸体験(②)を重視するのがローティ、共同体感覚(③)を重視するのがアドラー。詳述しませんが①②③は交互的条件付け(任意ペアの相互強化・相互抑制)の関係。単なる(線形の)リストではない。戻ると「不可能でも諦めない愛」を可能にする自己信頼・を可能にする①②③の不全が、全てをダメにします。そこに処方箋のヒント——どんな環境で育ち上がればいいか——があります。

<資料3:大学生Sさんへのメッセージ>

前提
Sさんからの、
「地理的な移動の道筋を当日に詳細に思い出すことが記憶力の増進に役立つが、
 他に役立つことがないか?」
という質問に対して、
それだけでは長期記憶に関しては役立たないので、どうすればいいかについての
宮台さんからのリプライです。
大学生Sさんへのメッセージ

僕は6つの小学校に通いましたが、ほぼすべての小学校の、同級生の名前を覚えています。写真を示されたら、だいたい全員の名前を言えます。これは、単に僕の「脳的な」記憶力の問題ではなく、記憶力の上昇でなく、ある手順の問題です

学年が変わるたびに転校し、転校先には最初のうち居場所がないので、元の学校の友達や出来事をリアルに思い出して、その記憶を無重力状態を逃れるために使っていました。

具体的には、元の学校・自宅の周辺の地図(国土地理院)に、思い出の場所を思い付く限り記して、そこでの出来事、一緒にいた友達や、それぞれの場所に移動した時の動線を、風景と共に詳細に思い出す営みを、繰り返しました。

その結果、僕は全ての小学校において、どこで、誰と、何をしたのかを、映画のように視覚的に記憶し続けるようになりました。中学以降になると、東京に居続けたので、ソレをしなくなった結果、映画的な記憶があまりありません。

4年前まで、今に近い時期なのに、やはり映画的な記憶が薄いです。でも、4年前から、小学校時代と同じ営みがたまたまできるようになった御蔭で、それ以降の記憶は、小学校時代と同じように、詳しく映画的に記憶しています。

でも、30年前から映画批評の仕事をしているので、映画については、感じたことについて多数のメモをしていて、新しい映画を論じる場合に幾度も読み返すので、映画の場面展開を詳しく記憶しています。

英語ではdiaryとjournalingを区別します。diaryは出来事の記録で、journalingは感じたこと・思ったことの記録です。journalingは、心の記録で、僕は心の記録を反芻する(読み返す)ことで、長期記憶を映像的に保持してきました。

意識研究では、心に生じたことの記録・を読んで心に生じたことの記録・を読んで心に生じたことの記録⋯という累積──反応に対する反応に対する反応⋯──という「再帰的反応の累積」が、経路依存的で唯一的な自己self(自己像・自己物語)を与えると考えられています。

先にシェアした文章で、現実に適応して変化する期待水準とは別に、現実がどうあれ変わらない願望水準があり、願望水準はそれを諦めたら自分は自分じゃなくなるという自己愛に関連するのだ、と言いました。

それを言い換えて、journalingによって累積的に形成されたがゆえに揺らがない願望水準(を可能にする自己愛)は、「不可能な願望でも諦めない」「不可能な願望だから諦めない」というロマンを可能にするのだ、とも言いました。

短期記憶と違って、長期記憶とそれを可能にする「自己に関する再帰的反応の経路依存的な累積(によるユニークネス)」だけが、願望水準を可能にする累積的な自己への固執(自己愛)を与えるということに注意してください。

・・・さて、いかがだったでしょうか。

僕が、今回の書評で、特に「面白い」と感じたのは、
この部分です。

他人たちから(女からも男からも)愛されてきた・愛されているにも拘わらず、自己卑下(自己信頼の低さ)ゆえ、愛されてきたことにも愛されていることにも気付けず、それが主人公にとっての青天の霹靂の如き「裏切り」を自ら準備することになったという話になっている

・・・というのも、

普通の人は、こういったタイプの小説を読んだ時に、

「主人公は、信じていた人に裏切られたから、愛を信じられなくなった。」

と読みます。

でも、宮台さんは、

その前にもう一つ層があると言っているのです。

それが、

〝愛を信じられない自己像が、
 そもそも裏切りの歴史を準備していたのではないか〟

という層。

この物語における
主人公の、最初の認識は、こうでした。

裏切られた
→傷ついた
→否定的自己像になった(自分はダメだ)
→愛を信じられなくなった
→さらに恋愛で失敗
→(以下、ループ)

しかし、宮台さんは、

その「裏切られた」という歴史の前に、

もう一つの層を置きました。

つまり、

初めからの否定的自己像
→他者から愛が来ても気づけない(あるいは回避する)
→誤った選択
→悲劇(=裏切られたと認識する出来事)
→さらに否定的自己像が形成
→(以下、ループ)

という流れです。

そう。

この小説の主人公は、

決して、愛されていなかったわけではないのです。

愛は、来ていた。

・・・にも関わらず、

その愛に気づいてしまうと、自分の否定的自己像が壊れるから、

無意識に見ないようにしていたのです。

この、

〝否定的自己像が、悲劇の結果ではなく、悲劇の原因にもなっている〟

というのは、面白い考え方だなと思いますが、

じゃあ、そもそも、この「否定的自己像」は、

どこから生まれるのか?というと、

それが、

「自己信頼の不全」

なのだと宮台さんは書かれています。

自己信頼とは、

「自分は愛されるに値する」

と頭で思い込むことではありません。

もっと根深いもので、

・自分は試行錯誤できる。

・自分は世界に関わり直せる。

・自分は失敗しても終わらない。

・自分は誰かと深くつながりうる。

・自分は不可能な願望を抱いても壊れない。

こういった〝深いところの足場〟なのです。

宮台さんは注釈で、

自己信頼は、文芸体験や試行錯誤の累積によって育つものであり、

他者からの承認には依存しない、と説明しています。

さらに、

80年代以降の新住民化=人間関係資本の空洞化によって、

試行錯誤の抑制、文芸体験の貧困、共同体感覚の衰滅が起き、

それによって自己信頼が消えた、とも書かれています。

近年、宮台さんは「界隈(かいわい)」という言葉を

キーワードにしています。

これは、単に、

「仲良し共同体を作ろう」

みたいな話ではありません。

共同体は、下手をすると、

承認依存を強めます。

「この界隈に認められたい」

「この共同体の中で評価されたい」

となると、

それは自己信頼ではなく、自己肯定感の「供給装置」になり得ます。

宮台さんの言う〝界隈〟は、それとは違う、

・試行錯誤できる場

・物語や型を受け継ぐ場

・「みんな悩んで大きくなった」と思える場

・いつでも戻って来られる「安心感」がある場

・社会という荒野を仲間と生きるための場

を言うのだと思います。

そして、宮台さんが、近年、〝ゆにわ〟に興味を持ち、

一緒に活動してくださっているのも、

〝ゆにわ〟が、単なる教育事業や宗教的文化圏ではなく、

〝生活世界を再構築しようとしている実践の場〟

だからなんだと思います。

すなわち、

自己信頼は、頭の中だけで作るものではなく、

他者と関わり、

言葉を浴び、

時に失敗し、恥をかき、

それでも戻ってこられる場があり、

そんな自分を受け入れてくれる仲間がいて、

そう信じられる〝あたたかみ〟のある関係性があり、

自分より前に悩み抜いた人たちの足跡があり、

「自分だけではない」と思える・・・

そんな環境の中で、

少しずつ育つものなのかなと感じます。

さて、ここからは、

僕が感じる「多崎つくる」という名前が象徴するものとは?

という話をさせてください。

これは、この小説の作者である村上春樹さんや、

宮台さんが言っていることではなく、

僕個人の考えとしてお読みいただけたらと思います。

「多崎つくる」という名前には、

「〝多〟くの〝崎〟に立ち、新たな物語を〝つくる〟」

ということが象徴されているのかな、と感じています。

〝崎〟とは、

陸と海の境目であり、

こちら側とあちら側の境界であり、

世界に突き出した場所、という意味を持ちます。

つまり、多崎とは、

〝多くの境界(Horizon)に立っている〟

ということ。

仲間と孤独の境界。

愛されることと受け取れないことの境界。

過去と未来の境界。

歴史と認識の境界。

未達の恋と、もう一度踏み出す恋の境界。

そんな中、

彼は、自分の否定的自己像によって、

いったん、真の愛から、自らを遠ざけてしまいました。

つまり、

愛されていたのに、

愛されていることを受け取れず、

その鈍感さゆえに、取り返しのつかない悲劇を準備したのです。

しかし物語は、

その悲劇をただの傷として終わらせない。

多崎は、自分が愛されなかったのではなく、

愛を受け取れなかったのだと知るのです。

その、ある種のコペルニクス的転回のような認識の逆転により、

多崎は、裏切られる可能性を含んだまま、

もう一度、真の愛へ踏み出すことを決意するのです。

僕は、恋愛を題材にした文学小説には、

「錬金術」の思想を補助線にすると

よりクリアに見えてくるものが多いと感じています。

錬金術とは、

心の変容(化学変化)を見ていくもので、

具体的には、

黒化→白化→赤化

という変容のプロセスがあります。

「黒化」とは、多崎つくるが経験した、

自分の世界が崩壊してしまうプロセスです。

信じていた世界が壊れ、

廃人のようになってしまう。

しかし、そこで終わりではなく、

彼は次に、「白化」のプロセスへと進んでいきます。

「白化」とは、

いったん黒く沈んだものが、

少しずつ洗われ、

〝自分が何を見落としていたのか〟

〝自分が何を受け取れなかったのか〟

〝自分が、どんな認識の中に閉じこもっていたのか〟

が見えてくるプロセスです。

多崎つくるは、一度は心が壊れてしまったけれど、

その後、様々な出会いを通して、

ずっと見ないようにしてきた過去と、

もう一度向き合うことになります。

そして、「赤化」。

冷たく澄んだ認識に、

もう一度、熱が戻ってくる段階。

これは、

「今度こそ絶対に裏切られない愛を求める」

・・・のではなく、

むしろ逆!で、

「たとえ裏切られるかもしれないとしても、
 それでも100%の愛の相互性を諦めない」

という覚悟を持つことです。

これが、宮台さんの言うところの

〝裏切り前提のロマン主義的恋愛〟

です。

すなわち、真の愛とは、

絶対に裏切られない安全地帯に入ることではなく、

むしろ、裏切られる可能性を知ったうえで、

それでも相手に向かっていけることなのです。

・・・とするなら、

この〝多崎つくる〟という名前には、

〝多〟くの経験を経て、

その〝崎(=境界線=Horizon)〟に立つことで、

自分の人生の物語を編み直す(=壊れた世界をもう一度〝つくる〟

ということが象徴されているな、と感じます。

人は、一度、愛からとことん遠ざかるからこそ、

最終的に、真の愛を知ることもあります。

もちろん、すべての人がそうなるとは限りませんし、

遠ざかったまま、戻れなくなる人もいます。

多崎つくるも、一度はそうなりかけた。

しかし彼は、

その悲劇をもう一度見つめ直す巡礼によって、

認識の反転が起こり、

それが、真の愛へ踏み出す契機となったのです。

・・・であるならば、

大局的に見た時に、

「『否定的な自己認識によって、悲劇の歴史の準備をしていた』
 という歴史そのものが、巡礼によって、
 真の愛へ踏み出すための準備となった。」

という〝もう一つの層〟を作ることができるのではないでしょうか。

これは、以前公開した宮台さんとの対話で紹介した、

「再帰的子供」

の考え方とも響き合うものがあると感じます。

一周して、戻ってくる。

だけど、その時は、

ふりだしに戻るのではなく、

解釈が変わっている。

これが、多崎つくるの「巡礼」なのかなと思いました。

そして、これは、

多崎つくるだけの話ではないのかもしれません。

僕らもまた、

どこかで、すでに届いていた愛を、

自分には関係ないものとして

見送ってしまってきたのかもしれません。

「だから、もう愛を追いかけても無駄なんだ」

と考えるのではなく、「巡礼」させる。

「巡礼」とは、遠くへ行くことではなく、

かつて受け取れなかったものの前に、

その境界(Horizon)に、

もう一度立つことなのかもしれません。

その時、

裏切られた経験

傷ついた経験

愛から遠かった経験

それらすべての経験(経路)に意味が生まれる。

それによって、

「社会時空と性愛時空の直和分割」

が完成する。

そんなことを、感じさせていただきました。

この補足を読んだ上で、

もう一度、宮台さんの書評を読んでいただけると、

さらにエッセンスを感じていただけるのではないかと思いますので、

ぜひ、何度も読んでいただけたら嬉しいです。

それでは、今回はこの辺で。

ありがとうございました。